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最高の美貌を封印した令嬢の物語  作者: 秋ヶ瀬胡桃


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第2話 満足

 エリオット王子から届けられた非情な婚約破棄の書状が灰となって消え去ったあの日から、私のまったく新しい生活が幕を開けた。

 世間から完全に激しく見捨てられ、埃と蜘蛛の巣にまみれていた屋敷の古い離れでの暮らし。

 それは、かつての私を知る社交界の華やかな人々から見れば、哀れむべき没落であり、見るに耐えない悲劇そのものだったに違いない。

 誰もが私を「悲運の令嬢」として同情するか、あるいは因果応報と嘲笑ちょうしょうしていることだろう。

 しかし、当事者である私自身の胸中は、彼らの想像とはまるで正反対のところにあった。


「お嬢様、今朝焼き上がったばかりの温かいパンと、お庭の片隅で採れた野苺をじっくり煮詰めたジャムでございます。どうぞ冷めないうちにお召し上がりくださいね」

 ニーナがトレイを古びた木製のテーブルに置きながら、いつものように穏やかな声をかけてくれた。

 白磁のカップに注がれるのは、彼女が丁寧にれてくれた芳醇ほうじゅんなハーブティー。

 その心安らぐ香りに優しく包まれながら、私は窓の外に広がる小さな庭をぼんやりと眺めていた。

「ありがとう、ニーナ。本当に良い香りね」

「お気に召して光栄です。お嬢様が少しでもお疲れを癒やせるよう、数種類のハーブを特別に調合いたしました」

「ふふ、あなたの淹れるお茶は、いつも本邸の高級な茶葉よりずっと美味しいわ。それにこのジャムも、売っているものよりずっと甘くて爽やかよ」

 私がパンにジャムをたっぷりのせて口に運ぶと、ニーナは嬉しそうに目を細めた。

「お嬢様にそう言っていただけるのが、私にとって何よりの誉れでございます。お庭の苺も、お嬢様がここへおいでになってから、まるで喜ぶようにたくさん実をつけるようになりましたから」

「……私がここに来てから、ね。皮肉なものだわ。あんなに広い本邸にいた頃は、自分が食べるパンがどんな風に焼かれているのかさえ知らなかったのに」

 私はふっと自嘲気味な笑みをこぼし、自分の手元を見つめた。

「ここでは、鳥のさえずりで目が覚めて、あなたの美味しい朝食があって、誰の視線もおびえる必要がない。皆は私を『憐れむべき没落』だと思っているでしょうけれど……私は今、生まれて初めて、こんなに穏やかで満ち足りた時間を過ごしているのよ」

「お嬢様……」

「おかしな話よね。魔法でこんなに醜い化け物の姿になって、すべてを失ったはずなのに。今の方がずっと、心が自由だなんて」

 ぽつりと呟いた私に、ニーナはいつもと変わらない、静かで深い眼差しを向けた。

 彼女の視線には、私の爛れた顔に対する嫌悪も、過剰な同情も一切ない。

「失った、などということはございません。お嬢様はただ、ご自身を縛り付けていた不要な飾りを捨て去り、本当の平穏をお手元に引き寄せられたのです。そのお姿は、私にとっては昔も今も、変わらず気高く美しくあらせられますよ」

「ニーナったら、またそんなお世辞を……」

 私は照れくさくなってハーブティーに口をつけたけれど、彼女の言葉が冷え切った胸の奥をじんわりと温めていくのを感じていた。


 ここには、私のほんの一瞬の微笑ほほえみや、何気ない眼差し一つに狂って刃を交え、血を流し合うような愚かな男たちは一人として存在しない。

 また、伯爵家の利益や権力を拡大するためだけに、私をただの美しい飾り人形や外交の道具として扱おうとする実の両親も、ここには入ってこないのだ。

 醜い化け物に変貌したと噂される私を、好奇の目でのぞき見ようとする者もいない。

 私の実の父母は、姿の変わった私をけがらわしいものとして本邸から追放しはしたものの、一応は国の大臣を務める高貴な身分だ。

 いくら疎ましくなったとはいえ、実の娘を敷地内で餓死させたとなれば、世間への外聞が悪くなると考えたのだろう。

 そのため、最低限の食事や、日常を営むためのささやかな生活費だけは定期的に保障されていた。

 贅沢なドレスや宝飾品を買うことこそできないけれど、ニーナと二人で静かに、誰にも邪魔されずに暮らしていくには十分すぎるものだった。




「なんて、穏やかで満ち足りた時間なのかしら……」

 本音を言ってしまえば、このあらゆるしがらみから解き放たれた、孤独で静寂に満ちた生活に、私は心の底から深く満足していた。

 誰の視線もおびえる必要のない日々は、私にとって天国のような救いだったのだ。

 けれど、そんな平穏な日を重ねていくごとに、私の胸の奥底には、ある黒く重苦しい感情が少しずつ芽生え始めていた。

 それは、他でもない自分自身に対する強烈な「後ろめたさ」と罪悪感だった。

 かつて私を巡る愚かな争いのせいで、人生を狂わせるほどの大怪我を負ってしまったあの貴公子たち。

 彼らが犯した凶行は自業自得であり、同情の余地はないのかもしれない。

 けれど、もしもこの世界に私という存在がなければ、彼らが無益に血を流すことも、その家族が涙を流すこともなかったはずなのだ。

 それなのに、発端となった私だけが、魔法使いの力を借りて醜さという名の盾を手に入れ、すべての面倒な責任や罪から卑怯に逃れて、この静かな離れの中で一人幸福に満足している。

 その厳然たる事実が、今の私にはどうしても身勝手で、ひどく罪深いことのように思えてならなかった。


「……ニーナ、少し気分転換に、外の新鮮な空気を吸ってこようと思うの」

「それがよろしゅうございますわ」

 ニーナは、私の気持ちを理解してくれたようで、多くを言わずに微笑んだ。

 私は自分の肥大化していく罪悪感を、行動を起こすことで少しでも和らげたいと切実に願った。

 両親から与えられた仕送りのお金をいくつか革の袋に詰め、周囲に顔が露見しないよう、目深に大きなフードをかぶって、誰の目にも触れないようこっそりと屋敷の離れを抜け出た。

 私が勝手に外出しないように、父の言いつけで監視している者がいたはずだが、見とがめられることはなかった。

 思えば軽率な行為だった。

 無事に済んだのは、ニーナがどうにかしてくれていたのかもしれない。

 私が向かったのは、きらびやかで傲慢な貴族たちが闊歩する中央街ではなく、陽の当たらない平民や貧困層が肩を寄せ合って暮らす、薄暗い下町の路地裏だった。

 貴族らしくない粗末な服を着て、深くかぶったフードの下の顔を隠したまま、私は町の中で行き倒れそうになっている年老いた物乞いや、飢えに苦しんでお腹を抱えている小さな子供たちに手を差し伸べ続けた。

 私は「これを使って、どうか今日のお腹を満たしてください」と、彼らの泥に汚れた手に、いくらかの貨幣をそっと握らせ、静かに施しをして回った。

 彼らから涙ながらに何度も温かいお礼を言われるたびに、私の罪悪感が、ほんの少しだけ免罪されるような、胸の痛みが和らぐような、そんな気がしていたのだ。




 そんなある日のこと。

 下町の活気ある喧騒を切り裂くように、激しく荒々しい馬のいななきと、突き刺さるような鋭い悲鳴が周囲に響き渡った。

 見れば、下町の狭い通りにはおよそ不釣り合いな、豪華絢爛な装飾が散りばめられた貴族の馬車が、猛スピードで突っ込んできたのだ。

 御者が平民を威嚇するように乱暴に鞭を振るったその馬車は、あまりの速度にけきれなかった一人の町人の老人を、容赦なくはね飛ばした。

 老人は硬い石畳の上に激しく叩きつけられ、衣服を破り、足から真っ赤な血を流して苦しそうに激しく呻いている。

 それなのに、その馬車は速度を落とすどころか、地を這う怪我人など最初からこの世に存在していないかのように、平然と無視してそのまま走り去ろうとしたのだ。

「待って! 止まりなさい!」

 気がついたときには、私の頭で考えるよりも早く、体が勝手に動いていた。

 私は夢中で走り出し、冷酷に砂埃を上げて車輪を回転させる馬車の真ん前へと飛び出したのだ。

 両腕を大きく左右に広げ、自らの細い身を挺して、その狂暴な進行方向へと真っ直ぐに立ち塞がった。

「ヒヒィーン!」

 突然の乱入者に、御者が慌てて顔を強張らせて手綱を引いた。

 キィィと激しい摩擦音と馬の悲鳴が響き、馬車は私のすぐ目と鼻の先で、激しく揺れながら急停車した。

「な、なんだお前は! 命が惜しくないのか、この浮浪者が!」

 御者が目をつり上げて怒鳴り散らす声を完全に無視して、私は馬車の豪華な客席の扉に向かって、毅然とした強い声で言い放った。

「人をはねておきながら、まともな治療も施さずに立ち去るのですか。すぐにあのお年寄りを大至急、医者の元へ運んでください!」

 ややあって、沈黙を守っていた馬車のきらびやかな窓が、乱暴に開け放たれた。

 中から不快そうに顔を覗かせたのは、美しく着飾った、私の記憶にも微かに見覚えのある一人の貴族令嬢だった。

 彼女は私の姿を見るなり、激しい嫌悪感を露わにして美しい眉をひそめ、持っていた高級な扇子で鼻と口元を大げさに覆った。

「黙りなさい、この薄汚い身分の癖に生意気な。どこの馬の骨とも知れぬ卑しい平民が一人路上で転んだくらいで、この私……いえ、我が伯爵家の高貴な馬車を止めるなど、許しがたいことですわ。さっさとそこをどきなさい、この不潔な売女ばいた!」

 彼女は私を見下し、ありとあらゆる口汚い罵詈雑言ばりぞうごんを、容赦なく浴びせかけてきた。

 そのあまりにも傲慢で冷酷な態度に、私が怒りと衝撃で息を呑んだその瞬間、不運にも周囲の路地から激しい突風が吹き抜け、私の頭を完全に覆っていたはずのフードを、無残にも後ろへと大きく跳ね上げたのだ。

 白日の下に容赦なく晒されることとなった、私の本当の顔。

 かつての「国の宝」と呼ばれた輝きなど微塵もなく、灰色に濁り、酷い爛れが全面を覆う、見るも無惨で醜悪極まりない容姿。

 それを見た令嬢は、一瞬だけ信じられないものを見たかのように恐怖で目を見張った。

 しかし、すぐにそれが「噂の恐ろしい病に冒された、哀れで醜い化け物」なのだと理解すると、今度はその美しい顔を酷く歪ませ、歓喜に満ちた嘲笑の笑みを浮かべた。

「ふ、ふふ……っ! あはははは! 何か偉そうなことを言うかと思えば、一体なんて悍ましく不愉快な顔なのかしら! そんな化け物みたいな顔をして、よくもまあ正義の味方のつもりでいられたものね! およしなさいな、見ているだけでこちらの虫唾が走り、吐き気を催しますわ!」

 お腹を抱えて甲高かんだか嘲笑あざわらう彼女の黄色い声が、静まり返った下町の狭い路地裏に、残酷に響き渡る。

 彼女はひとしきり私を道端のピエロのように笑い者にすると、汚いゴミでも見るかのような目で窓をぴしゃりと音を立てて閉めた。

 馬車は足元の泥水を激しく跳ね上げながら、再び速度を上げて走り去っていった。

 私は泥に汚れ、ただ一人、冷たい石畳の上に呆然と立ち尽くしていた。

 不思議と、自分に向けられた嘲笑に対する悔しさや怒りは湧かなかった。

 ただ、あの令嬢の心に宿る、他者を人間とも思わない凍りつくような傲慢さに、胸がひどく締め付けられるように痛んだ。

 私はすぐに我に返ると、未だに地面で苦しんでいる老人の元へと必死に駆け寄った。

 私をただの醜い化け物と笑い飛ばして去っていったあの傲慢な貴族令嬢と、後日、再び嫌な出会い方をするとは、このときの私はまだ、知る由もなかった――。

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