準備(2)
これからの三ヶ月間は、俺にとって長く長い精神的な拷問の日々だった。
ヴィクトールとエラシアの前では、大病から回復したお利口で従順な息子を演じつつ、ケイトさんの「密着したお世話」に常に警戒を怠ってはならない。
あの日目を覚ましてから、ケイトさんはまるで別人になってしまった。
相変わらず俺を抱きしめるのが好きだけれど、最初の頃のように奇妙な言葉を連発することはなくなった。
その代わり、行動はますます不気味になった。
二人きりになった時は絶対に「ケイト」と呼ぶよう強要し、少しでも呼び方を間違えようものなら、長い間胸に埋め込んで締めつけてくる。
毎朝目を覚ますと、彼女は既にベッドの脇に立ち、温かいタオルと着替えを手に待っている。
一言も発さず体を拭き、着替えを手伝ってくれる。
動作は極限まで優しいのに、その眼差し――まるで自分の所有物を見つめるような視線が、常に俺を針の筵に座らせていた。
部屋の本を読み終えた後、この世界の情報をもっと知ろうと、こっそり書斎へ行こうとしたこともある。
だが俺が書斎に踏み込む瞬間、ケイトは必ず熱いお茶やお菓子を持ってついてくる。
喋りも邪魔もせず、ただ隅に立って黒い瞳で俺を見つめ、時には豊満な体を俺の座椅代わりに差し出してくる。
正直、これでは子供の教育に悪すぎる。
一方のフロスティアの変化は、さらに俺を戦慄させた。
彼女はひたすら甘えん坊になったくせに、俺以外の誰の接近も拒絶するようになった。
メイドの世話を一切断り、自分で服を着、髪を梳く。(ただいつもぐちゃぐちゃになって、結局俺が直してやることになるのだが)
俺が視界から五分以上消えると、屋敷中を探し回る。
ケイトが近くにいる時は、俺の服の裾を強く掴み、まるでケイトを生きたまま引き裂こうとするような眼差しで睨みつける。
こうして奇妙な三角関係が出来上がった。
ただ生き延びたいだけの四歳児である俺は、病かもしれない執着を抱くメイドと、未来の殺神となる妹に挟まれ、毎日地雷原を踊るような日々を過ごしている。
フロスティアに過剰に肩入れすれば、ケイトが俺のミルクに得体の知れない薬を混ぜるのが怖い。
かといって、ケイトに少しでも依存する素振りを見せれば、フロスティアが深夜に氷の槍でケイトを串刺しにするのが目に見えている。
こんな生活に、俺は息も詰まりそうだ。
だから、一人の時間が必要だった。
ある穏やかな午後、俺は腰に手を当てて屋敷の中庭の空き地に立っていた。
傍にはケイトとフロス、そしてもう一人――オーロラ家の筆頭庭師、グレン・シルベスターがいる。
彼はハンカチで湿った目元を拭い、皺だらけの顔に限りない感動を浮かべていた。
「おお、当主様、ご覧ください。いつも部屋に閉じこもって本ばかり読んでいた坊ちゃんが、この庭に足を運んでくださるなんて……」
「大げさですよ、グレンおじいちゃん。ただ今まで時間がなかっただけです」
俺は彼が用意してくれた小さな手袋をはめ、大きく背伸びをする。
この空き地は元々、ヴィクトールがルルエンのために用意した小さな庭だった。だがルルエンがずっと手入れをしなかったせいで、今では荒れ果てている。
俺が今日ここへ来た目的は、ただ一つ。
「フロス」
俺はそっとフロスティアを手招きする。
「こっちに来て」
彼女の表情が一瞬輝き、パタパタと駆け寄って俺の隣に立つ。すぐに俺の手を握ろうとするが、俺はそっと避けた。
「?」
彼女の周囲に暗い気配が漂い始めたのに気づき、慌てて弁解する。
「手袋をはめているから、汚れているの。絶対にフロスのことが嫌いなわけじゃないよ。お兄ちゃんを信じて」
『蠱惑家』の能力、発動。
フロスは素直に頷いた。
本当に便利な能力だ。
「ところで坊ちゃん、どんな花を植えましょう?老朽のおすすめは蝶豆蘭ですが…… あ、それとも虞美人も坊ちゃんの美しさによく似合います。あの鮮やかな色彩は、坊ちゃんの儚い美貌を引き立てますわ……」
グレンおじいちゃんが次々と花を勧めてくるが、俺はもう植えるものを決めていた。
自分の姿が映るフロスの金色の瞳を見つめ、口を開く。
「グレンおじいちゃん」
その姿はまるで嵐の中で震える雑草のようだ。
「タンポポを植えたいです」
前世の田舎の故郷に、一面のタンポポ畑があった。
元々は農地だった場所が荒れ、たった一年でタンポポに覆われたのだ。
タンポポは生命力が強い。
踏みつけられ、葉をむしり取られても、根さえ残っていればまた芽を出す。
生きている限り必死に伸び、花を咲かせ、種をつける。
鮮やかな黄色い花を咲かせ、綿毛のような白い種子を実らせる。
年々繰り返し、やがて一面の土地を明るい黄金色で染め上げる。
俺は、あんな強く生きる存在になりたかった。
グレンおじいちゃんは一瞬戸惑った表情を見せたが、すぐに優しい笑顔を取り戻す。
「坊ちゃんのご希望なら、老朽全力でお手伝いいたします」
彼は庭の隅の小さな倉庫へ入り、すぐに小さな瓶を持って戻ってきた。
瓶の中にはふわふわした綿毛のタンポポが二輪、摘みたてのように瑞々しく収められていた。
フロスティアはタンポポを見るのが初めてらしく、不思議そうに綿玉を見つめている。
俺は驚きを隠せなかった。
グレンおじいちゃんは長年待ち望んでいたかのような誇らしい表情で話す。
「これは十数年前、老朽の娘が初めてくれた贈り物です。確か…… 魔法のような力でこの姿を保っているのだとか」
知っている限り、こんな現象を起こせる魔法はたった一つしかない。
古代魔法――『時の牢獄』
膨大な魔力と極限まで繊細な操作を注ぎ込み、限定された空間の時間を完全に停止させる伝説の魔法。
七つの伝説魔法の一つであり、この人間界で行使できるのは、魔法王国ムドゥスの十二魔塔の主たちだけのはずだ。
グレンおじいちゃんの娘が、この魔法を十数年も維持し続けていたなんて……
この屋敷には、俺以外にまともな人間が一人もいないのか?
グレンおじいちゃんから瓶を受け取り、慎重に栓を抜く。
幸い爆発などは起こらなかった。
冷や汗を拭いつつ、一輪のタンポポをフロスに渡す。
フロスの金色の瞳は綿毛に釘付けになり、小さな鼻をひくひくと動かし、珍しい花の香りを嗅ごうとしている。
呼吸は穏やかになり、瞳には子供らしい純真な好奇心が宿った。
「にに…… これは何?」
甘く弾んだ声。いつもの暗い雰囲気は完全に消え失せている。
めちゃくちゃ可愛い。
「タンポポだよ。壊れやすいから、優しく扱ってね」
フロスティアは素直に頷き、綿毛にそっと顔を近づけ、小さな唇を膨らませて『ふっ』と息を吹きかけた。
傘のような種子が数粒風に乗り、優美な軌道を描いて庭の地面に舞い落ちる。
フロスのツインテールが尻尾のように弾み、とても愛らしい。
思わず手を伸ばし、柔らかい頭を撫でる。
彼女の体は一瞬硬直したが、すぐに従順に寄り添い、小さな頭を俺の手のひらに擦りつける。
「…… もっと撫でて」
はあ、俺の妹は本当に……
グレンおじいちゃんは温かい表情で二人の姿を見守り、少し照れくさそうにしていた。
「じゃあ、もう一輪だね」
手を引き、瓶からもう一輪のタンポポを取り出す。
視線はずっと遠くに立つケイトさんへ向けられていた。
彼女はずっと隅に佇み、黒い瞳で兄妹の姿を見つめ続けている。嫉妬か、喪失感か、それとも別の感情か――複雑な思惑が読み取れない。
俺の視線が届いた瞬間、彼女の体は明らかに震え、穏やかだった表情に慌てが浮かぶ。
呼吸は速くなり、胸が激しく上下する。
「ケイトさん」
今なら、少し悪戯をしても大丈夫だろう。
彼女は勢いよく息を吸い、体を緊張させたかと思えば一瞬で力を抜き、盆を握る指の関節を真っ白に強く握りしめる。
「坊ちゃん…… あ、あたしのことですか?」
必死に平常心を装っている。
「うん、呼んだよ」
俺は悪戯っぽい笑みを浮かべ、手に持つタンポポを彼女の目の前に差し出す。
「ケイトさん、一緒に吹こう」
言葉が落ちた瞬間、ケイトの漆黒の瞳は極限まで収縮し、わずかな黒点だけが残る。
体は激しく震え、必死に抑えていた感情が溢れそうになっている。
そして覚悟を決めたように、持っていた盆を芝生に置き、ゆっくりと俺の元へ歩み寄る。
喉の奥から微かな嗚咽が漏れるのが聞こえる。胸の奥で激しく渦巻く感情が、自制を崩しかけていた。
俺の笑みは自然と深まる。
ふふん、思いもよらなかっただろ?俺だって攻める時は攻めるんだ。
彼女の視線は俺の手のタンポポに釘付けになり、まるで獲物を狙う蛇のようだ。
いや、ケイトさん、一応言っておくけどタンポポは食べちゃダメだよ?
「ぼ、坊ちゃん…… あたし、あたし……」
震える声で、一文字一文字噛み締めるように囁く。
俺は答えず、タンポポと自分の顔を少しだけ前に差し出す。
彼女の瞳は朦朧となり、顔を近づけてくる。
温かい吐息が俺の頬にかかり、甘ったるい香りが漂って、俺の心拍数まで上がる。
激しく打ち鳴らされる鼓動が耳に響き、豊満な胸が大きく上下している。
ごちそうさま。
彼女は細く長い指を伸ばし、震えながら俺の頬に触れる。
?
タンポポを吹くはずなのに、なぜ頬を触るの?
柔らかい髪の毛が俺の頬をなで、温かい彼女の顔がそっと重なる。
うわ、すべすべでもちもち、気持ちいい。
鼻先が柔らかい肌に触れ、微かな熱さが伝わってくる。
二人の間の風で、タンポポの綿毛がそっと揺れる。
「ご主人様……」
泣きそうな声で囁き、距離はますます近づいていく。
違う、これは絶対に違う。
まずい、止めなきゃ!
「ふっ、ふぅ――!」
咄嗟に機転を利かせ、ケイトの顔とタンポポめがけて強く息を吹きかける。
真っ白な種子が空一面に舞い散るが、俺はそんな景色を楽しむ余裕もない。
奇妙な恍惚に浸るケイトさんの表情は、とりあえず無視しよう。
背後から刺すような冷気が押し寄せ、戦々恐々と寒さの根源を振り返る。
ニコニコと優しく見守るグレンおじいちゃんではなかった。
氷の令嬢・フロスティアが、完全に限界を迎えていた。
「にに……」
俺とケイトを睨みつける彼女の澄んだ金色の瞳は、針のように細く収縮している。
なんで君までこっちの流れになるの?
白い小さな手はスカートの裾を強く握りしめ、力みすぎた指の関節は真っ白になっている。
俺はただ緊急回避をしただけなんだ。
信じてくれ、妹よ。
結局この一件は、ルルエンが一週間フロスティアと添い寝する罰で幕を閉じた。
めでたし、めでたし。




