準備(1)
一年に一度行われる『覚醒儀式』――
それは、この世界の誰もが五歳の年に経験する恒例の儀式である。
儀式の場で人々は、光の女神シルヴィアン・アクレイトの加護を受け、自らの『天賦』を授かる。
ゲームにおいてはスキルポイントの配分にあたり、プレイヤーが初めて操作に慣れる重要なイベントだ。
この世界の常識では、一般の子供たちは身近な修道院や教会で儀式を執り行う。
一方、各地の青い血を継ぐ貴族の末裔たちは、王都にあるシルヴィアン教団本部に集められ、一斉に洗礼を受ける。
これは各貴族が子弟の才能を世に示す場であり、当然、この機会を利用して勢力争いや勢力排除を企む者も少なくない。
それ以上に重要なのは、この儀式で原作のヒロインたちが、幼い姿で複数登場することだ。
オーロラ大公の子供として、俺ことルルエンとフロスティアは、否が応でも注目の的となる。
今はただ祈るばかりだ。ルルエンの固有スキルが酷すぎず、また強すぎもせず、とにかく目立たない能力であるように。
絶対に彼女たちの目に留まってはいけない。まだ長く生き延びたいのだ。
それに、皇帝陛下も視察に訪れると聞く。プレッシャーが半端ない。
前世のゲーム攻略時、この小柄な老皇帝には散々苦しめられたため、俺は彼に良い印象を抱いていない。
ゲーム内で死亡エンドに直結する厄介な任務の大半は、この男が発注したものだ。心底恨みを募らせている。
だが今の俺は幼いルルエン。権力者たちの前では礼儀を守らねばならず、実に面倒くさい。
「つまり、三ヶ月後、我々は王都へ向かうということね」
穏やかな声に我に返る。
エラシアは銀のナイフとフォークを置き、優雅に口元を拭う。
「時間は余裕がない。ヴィクトール、あなたは北辺に残って軍務を執り行い、今回は私が二人を連れて行く。それに、有能な護衛を数人選んで同行させる必要もあるわ」
「もちろんだ!ルルとフロスの覚醒儀式だからな!」
ヴィクトールは豪快に笑い、ナプキンで無造作に顔を拭う。口元には肉汁が滴ったままだ。
「近衛騎士団の精鋭を派遣してやる。愛する息子と娘の身に、ハエ一匹近づけはしない!」
父の厚意はありがたいが、俺には別の考えがあった。
甘ったるくて胸焼けするプリンを飲み込み、慎重に手を挙げる。
「あの……お母様、お父様」
食堂の視線が一気に俺に集まる。特に隣に座るフロスティアは、プリンに釘付けだった金色の瞳を瞬く間にこちらへ向け、じっと見つめて離さない。
うっ……また胃が痛くなってきた。王都へ行ったついでに、胃薬も調達しよう。
「どうしたの、ルルエン?お腹いっぱいにならなかった?」
エラシアが心配そうに問いかける。
「いえ、違います」
深く息を吸い、できるだけ自然な声を装う。
「護衛のことなのですが……ケイトさんを連れて行きたいです」
確かめたいことがある。
俺の食事に密かに薬を混ぜていたケイト・メロウの、固有スキルの正体を。
直接問い詰めても、はぐらかされるだけだろう。
空気が一瞬、凍りついた。
なぜ雰囲気が急に険悪に?俺、何かまずいことを言った?
『カチャリ』
エラシアの持つ銀のスプーンが白い磁器の椀に触れ、澄んだ音を響かせる。
ヴィクトールの笑顔は固まり、二切れ目の燻製肉を掴もうとした太い腕が宙に浮いたまま止まる。
この屋敷では誰もが知っている。ケイト・メロウはルルエンの専属メイドというより、半分は乳母兼身の回りの世話役であり、ルルエンも彼女に強く懐いていることを。
だが王都の公式な祭儀に、一般のメイドを同行させるのは、貴族の体面にかける。
「ケイト?」
エラシアは細い眉を少し上げ、困惑を含んだ眼差しを向ける。
「ルルエン、分かっているはずよ。王都の情勢は北辺よりずっと複雑だ。ケイトは細やかだけれど、体系的な戦闘訓練を受けていない。最低限の護身術すら……」
「ケイトさんなら、私の面倒をしっかり見てくれます」
母の言葉を遮り、細い声ながら確固たる意志を込めて告げる。
その瞬間、脳裏に文字が浮かぶ。
『蠱惑家』の能力、発動!
よし。もともと俺を信頼している家族相手なら、説得は通用するはず。
この称号の発動条件は一体何だろう。これほど便利な能力なら、しっかり活用しなければ。
テーブルの下で、フロスティアの小さな手が再び絡みついてくる。指先が俺の手のひらを荒々しく擦りつける。
痛い。柔らかい小さな手なのに、痛みは強い。もしかして『蠱惑家』の効果は、フロスティアには通用しないのか?
覚悟を決め、説得を続ける。
「それに、私はケイトさんがそばにいないと落ち着きません。見知らぬ騎士が側にいたら、眠れなくなってしまいます。覚醒儀式を前に、不眠で体を壊すのは、お母様も嫌でしょう?」
少しうつむき、全力で哀れっぽい表情を作り、両親を見上げる。
二人は思わず胸を押さえる。
ごめんね、お父様、お母様。今はこんな卑劣な手段でしか、願いを叶える方法がないの。
「仕方ない……我が可愛いルルエンがそう言うなら」
エラシアは穏やかにため息をつき、子供への溺愛を滲ませる。
ヴィクトールの方は、涙ぐんだような俺の表情に完全に弱く、ただひたすら頷く。
「護衛の騎士は当然連れて行くわ」
エラシアは当主夫人としての落ち着いた口調に戻るが、先ほどほど厳しくはない。
「だが、ケイトを専属侍女として同行させても良い。騎士たちは、口が堅く目立たない者を選ぶわ」
言いながら、彼女はふと頬を赤らめ、ヴィクトールの無造作な髪を見やる。
「それと……あの、今後はルルも、私の髪を結んでくれるようにしてね」
「はい!お母様、ありがとうございます!お父様も、ありがとう!」
安堵し、お利口な笑みを浮かべる。
やった、成功だ。
どうやらルルエンは普段家族と距離を置きすぎていたらしい。これからはもっと親しく接しよう。
その瞬間、左手に激痛が走る。
フロスティアの指が肉に食い込むほど強く握りしめていた。彼女はうつむき、金色の瞳を前髪で隠し、表情は読めない。
だけど一つだけ確かなことがある。
この子、今、完全に怒り狂っている。
「フロス……」
声を潜め、手を引き抜こうとする。
彼女は勢いよく顔を上げ、理解しがたい、絶対に理解したくない激しい感情を瞳に渦巻かせる。
俺をじっと睨みつけ、唇を微かに動かし、二人だけに聞こえる声で呟く。
「あの人も……行くの?」
フロスティアの声は、氷河の最深部から掬い上げたような冷たさで、俺の体を震え上がらせる。
ああ、終わった。
まぶたがけいれんし始める。
何とかなだめなければ。何を話せば……
「坊ちゃん、ご明察ください」
?!いつの間に!
「ケ、ケイトさん……」
俺の専属メイドが幽霊のように背後に現れ、胸元のナプキンをそっと手に取る。
「坊ちゃんは大病から回復したばかりです。専属メイドとして、同行するのは当然の義務ですわ」
まるで最高級の宝物を慈しむように、俺の唇元をそっとなでる。
これは、ルルエンの記憶にあるケイトの口調じゃない。
見慣れない、異質な雰囲気だ。
ヴィクトールとエラシアも驚きを隠せない。ケイトがいつ現れたのか、誰も気づかなかったらしい。
無表情なケイトを眺め、フロスティアの握る力はさらに強まる。
もう皮膚が裂けているだろう。
女の子たち、怖すぎる。
「……ケイト?」
一番最初に驚きから立ち直ったのはエラシアだ。細く眉をひそめ、穏やかな瞳に警戒の色が宿る。
大公家の家事全般を取り仕切る女主人として、このメイドの纏う不穏な違和感に気づかぬはずもない。
「いつの間に……?」
「夫人のお心遣い、感謝いたします。お嬢様の『教え』のおかげで、今の私はとても明晰な心ですわ」
ケイトは上品に身をかがめ、完璧なメイドの礼を取って母の言葉を遮る。そしてついでに、フロスティアを冷ややかに一瞥する。
その度胸ある態度に、俺を含め、周囲の人間は皆目を見張る。
これが、いつも穏やかで大人しく、少し愛らしいケイトなのか?
声は相変わらず柔らかい。だがその柔らかさは、かつての小動物のようなおとなしさではなく、牙を研ぐ蛇のように滑らかで冷たく、不安を煽る。
彼女の手はまだ俺の唇元に残り、ナプキン越しに下唇をかすかになぞり続ける。
その感触に、全身の鳥肌が立つ。
おかしい。九割九分、異常だ。
俺は硬直して椅子に座り、振り返って彼女の表情を確かめることすらできない。
部屋でフロスティアに茶盆で強打されたはずのケイトは、本来なら床で気絶したままか、せめて頭に包帯を巻き、衰弱しているはずだ。
なのにこうして音もなく食堂に現れ、まるで最初からここにいたかのように振る舞っている。
それだけではない。左手の痛みは指数的に増していく。
フロスティアの手はもはや握るのではなく、鉄の万力のように俺の指を締め上げていた。
指が折れそうだ、妹よ。
彼女は俺の背後に立つケイトを睨みつけ、金色の瞳は針のように細く収縮する。
まるで縄張りを侵された猛獣のようだ。
「お兄ちゃんから、手を離しなさい」
フロスティアの声は震えを失い、見慣れた冷徹さを帯びる。
「お嬢様。私はただ、専属メイドの職務を遂行しているだけですわ」
ケイトの声が頭上から降り注ぎ、挑発めいた響きを含む。
「坊ちゃんは大病明けです。口元に食べカスがついたまま放置すれば、私の怠慢となるだけでなく、オーロラ家の体面を汚すことになりますもの」
「離せ、と言っているの」
食堂の空気が一瞬で数十度も冷え込む。
食卓の銀食器の表面に、うっすらと白い霜が張り始める。
今は夏だ。それに、妹の固有能力はまだ覚醒していないはずなのに。
頼む、やめてくれ。二人とも、これ以上変数を増やさないで。
俺は助けを求めるように両親を見やる。
雰囲気の異変に気づいたヴィクトールが、食べかけの肉を置き、無造作に口元を拭う。
「おいおい、どうした?急に寒くなったぞ。ケイト、お前も音もなく歩くな。大公である俺まで驚かせるな!」
笑顔を装ってはいるが、瞳は鋭くなり、ケイトの隠れた力量を測り見つめている。
「だがルルがどうしても連れて行きたいと言うのなら、準備をしておけ。王都では必ず夫人の指示に従い、一切不手際を起こすなよ」
「承知いたします、大公閣下」
ケイトは従順に答え、ついに俺の唇元から手を引く。
ゆっくりと身をかがめ、俺の耳元に唇を近づける。
温かい吐息が耳殻にかかり、甘ったるくて胸焼けする彼女の香りが漂ってくる。
「坊ちゃん……」
二人だけに聞こえる吐息声で囁く。
「私を選んでくださって……ありがとうございます」
そして、俺の耳たぶをそっと甘く噛む。
痺れるような感触が背骨から頭頂へ突き抜け、自由な右手で必死に口を覆い、声を抑える。
彼女は身を起こし、汚れたナプキンを持ち、音もなく食堂の暗がりに下がり、ずっと俺を見つめ続ける。
俺は溺れた魚のように激しく息を吐き、背中は冷や汗でびっしょりと濡れていた。
その瞬間、左手の激痛がふっと消える。
振り返ると、フロスティアは手を離していた。
うつむいたまま、俺もケイトも見ようともしない。
ナイフとフォークを手に、機械的に料理を切り分け、黙々と口に運ぶ。
食べるスピードは速く、頬は膨らんでいるのに、体は小さく震え続けている。
「フロス……」
声をかけようとするが、喉は渇ききって言葉が出てこない。
晩餐は、こうして幕を閉じた。




