第61話 帰るべき場所と朝陽
「誰か……ッ! 誰かおらんかァァァッ!!」
レオンハルト殿下の悲痛で惨めな叫び声が、絢爛豪華な執務室に虚しく反響した。
彼がどれほど喉を枯らそうとも、ドアの外から駆けつけてくる足音はない。
圧倒的な資本と権力で築き上げたはずの城塞は、もはや静寂と、屈強な兵士たちの奇妙な嬌声だけが支配する巨大な墓標と化していた。
本当に、誰も来ない。……終わったんだ。
膝から崩れ落ち、自らの髪を掻き毟りながらうわ言のようにブツブツと呟き始めた第二王子を横目に、立つギルバート殿下は、心底つまらなそうに瞳を細めた。
「……終わりましたね。やはりカネで買われただけの忠誠など、所詮はこの程度。王国の新しい支配者としては、いささかお粗末すぎる喜劇でした」
殿下は、真紅のドレスの裾を優雅に翻し、私の隣へとすり寄ってきた。
そして、スーツの袖をそっと引き、その腕に愛おしそうに自身の腕を絡ませてくる。
「さあ、帰るべき場所へ戻ろうか。僕の、気高き騎士様」
耳元で甘く囁かれたその声と、腕から伝わる彼の確かな温もり。
それを感じた瞬間、私の中で限界まで張り詰めていた緊張の糸が、スッと解けていった。
手から力が抜け、握りしめていたツルハシがカラン、と乾いた音を立てて床に転がる。
「……はい、殿下。帰りましょう。私たちの開かずの間へ」
私は、床で震えるレオンハルト殿下に一瞥もくれることなく、愛する人と共に背を向けて執務室を後にしようとした。
「ま、待ってくださいませ!!」
その背中を、慌てた声が引き止めた。
部屋の隅に避難していたベアトリス様だ。
「このまま帰るおつもりですか!? 今のうちに、レオンハルト殿下が国を売り渡そうとしたという、この決定的な証拠を押さえ、公的な場に突き出すべきではありませんか!? そうしなければ、第二王子派の残党がまた……」
確かに、証拠が……。
私が足を止めかけた、その時。
ギルバート殿下が、私の腕に抱き着いたまま、クスリと妖艶に、そして底なしに邪悪な笑みを零した。
「ふふっ。ご心配なく、ベアトリス嬢。……そんな紙切れ、もはや必要ありませんよ」
「え……? どういうことですの?」
「レオンハルト陣営の資金の流れ、諸外国との密約、そして王都の裏社会のネットワーク。それらすべてを掌握し、実務を取り仕切っていたのは、あのヴィクトリアです」
殿下は、自身の唇を人差し指でツヤめかしくなぞった。
「その最大の生きた証拠にして、金庫番の魂は、すでに完全に僕の手に落ちています。……彼女は今頃、地下牢で僕の命令を待ち焦がれる、涎を垂らした忠実な雌犬になっているはずですからね」
私も内心、やりすぎでは!?と思わなくもないけれど、殿下が受けた仕打ちを考えれば自業自得だとも思う。
だが、当のギルバート殿下は、そんな邪悪な顔から一転。
私の右腕に、胸をむぎゅっと押し当て、あざとい上目遣いで甘え始めたではないか!
「さあさあ、こんなつまらない連中のことは放っておいて、早く帰ろう? 地下牢で痛い思いをした僕を、うんと甘やかして癒してくれる約束だろう?」
「えっ、そ、そんな約束しましたっけ……!?」
「したじゃないか、熱烈な口づけと共に」
「わぁぁっ、それはその、魔力供給の緊急措置であって!」
彼が無事だったのは最高に嬉しいし、愛おしい。
けれど、そんなふうに甘えられると、乙女としての処理能力が完全にバグってしまう!
タタタッ! と駆け寄ってきたベアトリス様は、負けじと私の左腕にガシッと強く抱き着いた。
「えっ? べ、ベアトリス嬢!?」
「殿下! 私も、私だって殿下のために奔走いたしましたのよ! ですから、私にも労いの言葉と、その……甘やかしを、要求いたしますわ!」
「な、何を言っているんですか!?」
右にメイド、左に名門公爵令嬢。
「おや、公爵令嬢様も随分と積極的だね」
殿下は、私の右腕に絡みついたまま、ベアトリス様越しに妖しく目を細めた。
「ふふっ……いいよ? そんなに僕の覇王様に構ってほしいなら、二人まとめて相手してやってもいいんだぞ? ねえ、覇王様?」
「なんで私に振るんですか!? というか、発言が変態じみてますよ!」
「望むところですわ! 殿下の隣に立つに相応しいのが誰か、はっきりさせてやりますわ!」
バチバチバチッ!
私を挟んで、ギルバート殿下の妖気とベアトリス様の対抗心が、見えない火花を散らす。
ああもう、どうしてこうなったの!
その緊迫した空気の中。
――きゅるるるぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ。
静寂に包まれた執務室に、信じられないほど大きな、そして間抜けな音が響き渡った。
「「「…………」」」
ピタリと動きを止める三人。
音の出所は、私の腹の虫だった。
「あ、ぅ……その……」
私は、耳の先まで真っ赤にして、両手で顔を覆った。
すべてが台無しである。
穴があったら入りたい。
いや、今すぐ床に落ちているツルハシで穴を掘って埋まりたい!
「……ふっ、あははははっ!」
最初に吹き出したのは、ギルバート殿下だった。
彼は腹を抱え、真紅のドレスを揺らしながら、涙が出るほど声を上げて笑った。
「あははっ! もう、最高だよ君は! これだけ格好良く決めておいて、最後がこれかい!」
「わ、笑わないでくださいッ! 私が誰のために、こんなに走り回ったと……!」
「くすっ……ふふふっ」
殿下の笑い声につられ、ベアトリス様も扇子で口元を隠しながら、堪えきれずに上品な笑い声を漏らした。
先ほどまでの血生臭い緊張感や、王位を巡るドロドロとした暗闘の空気が、二人の笑い声と共に綺麗に霧散していく。
「あーあ、笑ったら僕もお腹が空いてきちゃったな」
ギルバート殿下は目尻の涙を拭うと、執務室の分厚いカーテンを、魔術で勢いよく引き開けた。
パァァァァァッ……。
窓の外から、眩いほどの黄金色の光が差し込んだ。
朝陽に照らされながら、私は、頬をかきながら苦笑いし、隣で微笑む彼とベアトリス様を見つめた。
「……お腹、空きましたね」
「ああ、ペコペコだ」
「ええ、とても」
私は、小さく深呼吸をして、眩しい光に向かって柔らかく微笑んだ。
私の信念は貫かれた。
愛する人も、信じる仲間も、無事にここにいる。
これから先、どんな困難が待ち受けていようとも、この三人ならきっと乗り越えていける。そんな確信があった。
「それでは……帰って、三人で朝食にしませんか?」
泥にまみれた戦いは終わった。
三人の笑い声が、朝陽に包まれた部屋に、優しく溶けていった。




