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第56話 信じる心と魂の口づけ

「ヒッ」


ヴィクトリア様は咄嗟に身を翻し、鎖で吊るされているギルバート殿下の背後へと隠れるように回り込んだ。


「来ないでッ!!」


ヴィクトリア様の金切り声が、カビ臭い地下牢に響き渡る。


「一歩でも動いてみなさい! このチョーカーの留め金を外せば、呪いの魔力がこの女の脳髄を完全に破壊しますわ!」


彼女の震える手には、禍々しい黒光りを放つチョーカーが握られ、その冷たい金属の輪が、殿下の白く細い首筋にピタリと押し当てられていた。


「第二王子派につくと、今すぐここで誓いなさい! さもなければ、この高慢なメイドの自我を完全に消し去り、ヨダレを垂らして私の命令だけを聞く、哀れな肉人形に変えてやりますわよ!」


「……ッ!」


ふざけるな、ふざけるな……ッ!


我を忘れそうになった、その時だった。


『――落ち着け、僕の覇王様』


幻聴か、それとも微かに繋がった魂のパスの残滓か。


ふと顔を上げた私の視線が、ギルバート殿下の瞳と真正面からぶつかり合った。


限界を超えた魔力欠乏。


媚薬による強制的な快楽と苦痛。


脂汗に塗れ、乱れた銀髪の間から覗く彼のアメジストの瞳は、今にも死に絶えそうなほど弱り切っているはずなのに。


その瞳の光だけは、決して消えていなかった。


殿下……。


ギルバート殿下は、鎖に吊るされたまま、ヴィクトリア様には見えない角度で、私に向かって微かに唇を動かした。


『構うな。魔術でなんとかする。……僕を、信じろ』


その瞬間。


頭を沸騰させていた怒りが、ふっと嘘のように静まり返った。


……ああ。貴方を信じます。


深く、静かに息を吐き出す。


私はツルハシを片手持ちから両手持ちへと変え、刃先をすっと下段に下げて、父から教わった剣の型の構えを取った。


「虚勢を張るなッ! 私が本気でやらないとでも思っているの!?」


ヴィクトリア様が、ついに殿下の首に押し当てていた隷属のチョーカーの留め金を、ガチンッ! と無慈悲に嵌め込んだ。


「あぁぁっ……!」


禍々しい黒い呪いの魔力がチョーカーから溢れ出し、殿下の頭部を包み込む。


殿下の体がビクンと大きく跳ね、甘く艶かしい嬌声を上げてガクンと頭を垂れた。


「あははははッ! 見たか! これでこの女は私のものよ!」


ヴィクトリア様が、狂ったように高笑いしながら、壁の仕掛けを操作して殿下の両腕を拘束していた鎖を外す。


「さあ、私の雌犬奴隷となって、その男を殺しなさい!」


ヴィクトリア様の命令が下ると、鎖から解放された殿下は、フラフラと覚束ない足取りで立ち上がった。


そして、焦点の合っていない虚ろな瞳で私を見つめる。


「……はい。私は、ヴィクトリア様の……忠実な、雌犬です……」


と、甘く蕩けた声で呟き、私の前に立ち塞がるように両手を広げた。


私はツルハシの柄を握る力を、ほんの少しも緩めなかった。


迷いは一切ない。


信じろと言った。


なら、私は貴方のその狂った演技力ごと、すべてを信じ抜く!


ドンッ!


石畳を蹴り上げる。


狙うのは、盾となっている殿下ではない。


その背後に隠れ、勝ち誇った顔で立っているヴィクトリア様だ。


「や、やれッ! そいつを殺しなさい!」


ヴィクトリア様が叫ぶ。


しかし、殿下はふらりとその場に崩れ落ちるような挙動を見せる。


「え……?」


盾だったはずの殿下の姿が消え――絶妙なタイミングで、射線を完璧に空けた。


「な、あ……っ」


私は、殿下の脇を紙一重ですり抜ける。


「私の相棒を、舐めるな」


ツルハシの柄を、ヴィクトリア様の首筋へと的確に、かつ手加減を込めて振り抜く。


――ゴッ!


「あ、が……っ」


ヴィクトリア様は白目を剥き、冷たい石の床へと崩れ落ち、完全に気絶した。


静寂が、地下牢に降り立った。


手からツルハシが滑り落ち、カランと虚しい音を立てる。


「殿下ッ!!」


膝をついて崩れ落ちそうになっていたギルバート殿下を、正面から力強く抱きしめた。


「殿下、殿下……っ、ごめんなさい、私が遅かったばかりに……っ!」


虚ろな瞳で虚空を見つめている彼。


チョーカーの呪いを魔術で相殺した反動なのか、それとも限界を超えた疲労のせいなのか、殿下は私の呼びかけに反応しない。


だが、抱きしめた胸の奥から、確かに微かな魂のパスの残滓の温もりが伝わってくる。


彼は、まだそこにいる。


私を信じて、あの屈辱と激痛を一人で耐え抜いてくれた、世界で一番気高く美しい王の魂が。


……魔力が、足りないんだ。


殿下の魂を繋ぎ止めるための、力が。


私は、大粒の涙を流しながら、本能の赴くままに行動した。


彼を救いたい。


絶対に失いたくない。


ただ、それだけ。


私は、震える殿下の顎にそっと手を添え、上を向かせる。


そして、冷え切ったその唇に、深く、熱く、自らの唇を重ね合わせた。


ドクンッ。


魂と魂が直接触れ合うような、口づけ。


互いの魂の奥底に眠る魔力と愛情が、その接触を媒介にして、堰を切ったように流れ込んでいく。


「……私のすべてを、貴方に」


眩い極彩色の魔力の光が溢れ出し、冷たく暗い地下牢を、どこまでも暖かく、優しく包み込んでいった。

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