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第43話 夜明けの出立と公爵令嬢の餞別

東の空が白み始め、夜と朝の境界が曖昧に溶け合う時刻。


王宮北の塔、開かずの間は、深く重たい静寂に包まれていた。


天蓋ベッドの傍らに立ち、私、リリアは、泥のように眠るギルバート殿下の白い額にそっと触れた。


極度の魔力枯渇による危険な悪寒は、厚い毛布と暖炉の火、そして何より私自身の体温を直接分け与えたことで、ようやく峠を越えたようだった。


それでも、私の初期アバターであるその肌は痛ましいほどに青白く、目元には濃い疲労の影が落ちている。


寝苦しかったのか、真紅のドレスがはだけていたので、ため息をつきながらそっと毛布をかけ直した。


「……殿下。どうか、私が戻るまでゆっくり休んでいてください。今度は私が、貴方を守る盾になる番です」


私は、殿下の額にそっと唇を落とすと、静かに踵を返した。


執務机に置かれていた純白のクラバットを締め直し、長旅と土汚れに耐えうる厚手の乗馬用コートを羽織る。


ポケットの中にあるのは、昨昼に辺境の商人から受け取った、鈍い青紫色の光を放つ魔鉱石の欠片と鉱山の地図。


レオンハルト殿下の圧倒的な資本と物流封鎖に対抗するためには、誰も見向きもしないこの石に秘められた真の価値を掘り起こし、独自の生産ラインをゼロから構築するしかないのだ。


……剣も魔術も使えない、ただの侍女ですけど。


騎士の娘として培った胆力と、泥に塗れる覚悟なら誰にも負けません!


私は決意に満ちた足取りで開かずの間を出た。


まだ誰も起きていない王宮の冷たい石造りの回廊を抜け、足早に正門へと向かう。


厩舎で最も足の速い馬を借り、北の辺境にある魔鉱山まで単騎で駆け抜けるつもりだった。


だが、朝靄の立ち込める王城の巨大な鉄扉の前に出た瞬間、私は驚きに目を見張った。


「ブルルルルル……ッ」


古めかしい王城の風景には到底似つかわしくない、低く重厚な駆動音。


そこに停まっていたのは、見本市でレオンハルト殿下が誇示していた鈍重な魔導自動車とは一線を画す、流線型のスマートな車体を持つ最新鋭の特注魔導自動車だった。


公爵家の紋章が誇り高く刻まれた漆黒のボディが、朝日に妖しく煌めいている。


そして、その車のボンネットに寄りかかり、分厚い書類の束や布のサンプルを抱えいたのは――。


「……ベアトリス様?」


「あ……! ギルバート殿下!」


私の声に気づいたベアトリス公爵令嬢は、パッと顔を輝かせた。


普段の完璧に結い上げられた令嬢の髪型ではなく、動きやすさを重視した実用的なまとめ髪。


そして、徹夜で駆け回っていたことを物語るように、彼女の美しい翡翠色の瞳には微かな充血が見られた。


「どうして、このような朝早くに……それに、その車は?」


「殿下こそ、そのお召し物は長旅の装いではありませんか! ああ、やはり私の読み通りでしたわね!」


ベアトリス様は誇らしげに胸を張り、抱えていた荷物――最高級の絹織物のサンプルや、東方から取り寄せた希少な香料のリスト、さらには別の馬車ギルドとの新規契約書の束を、私の目の前に突き出した。


「ご覧になって、殿下! 第二王子派に王都の主要な物流を止められたのなら、私が公爵家の裏ルートを使って、他国から直接物資を引っ張ってくればいいだけの話ですわ。昨夜のうちに、我が家の息のかかった商会に緊急の手配を済ませておきました。これらは、黎明商会の新しいブランドとして十分に売り物になる一級品です!」


「ベアトリス様……これだけのものを、たった一晩で……?」


「それだけではありませんわ。殿下が窮地を打破するために、必ず自ら動かれると踏んで……我が家が大陸外から極秘に取り寄せていた、最新型の魔導自動車をお持ちしましたの。馬の倍の速度で悪路も走破できる優れものですわ!」


彼女は、車の鍵をチャラリと鳴らして微笑んだ。


「あのメイドに負けてはいられませんから」


その真っ直ぐな想いに触れた瞬間、私の胸の奥で、熱いものが込み上げてきた。


「殿下、それで、これからどちらへ……きゃっ!?」


私は、無意識のうちにベアトリス様の手から書類の束を取り上げると、彼女の体を、強く抱きしめていた。


「で、ででで殿下ッ!?」


「……ありがとう、ベアトリス嬢。君の力強い支援に、心から感謝する」


ベアトリス様の顔が瞬く間に茹でダコのように真っ赤に染まる。


私は、王子の体に入っていることを半ば忘れて、ただの一人の騎士の娘として、純粋な敬意と親愛を込めて彼女の背中を抱いていた。


「君は、本当に強くて美しい、誇り高き令嬢だ。……君が味方でいてくれて、こんなに心強いことはない」


「あ、ぅ、あ……っ」


私は慌てて、しかし不自然にならないようにゆっくりとベアトリス様を離し、彼女の肩に両手を置いて、真剣に見つめた。


「……私は今から、北の辺境にある魔鉱山へ向かう」


「魔鉱山……! あのような未開の地に、殿下自らが赴かれるというのですか!?」


「ああ。レオンハルト殿下の資本力に対抗するには、既存の価値観をひっくり返す新たな武器が必要だ。君が集めてくれた物資と、私が鉱山で見つけ出す新たな力。この二つが合わされば、必ず包囲網を破壊できる」


私は、ベアトリス様の手から魔導自動車の鍵をそっと受け取った。


「この車、ありがたく借りていく。……約束しよう、ベアトリス嬢。私たちは必ず勝つ。私を信じてくれたすべての人たちの想いに報いてみせる」


一切の迷いがなかった。


ベアトリス様は、胸の前で両手を組み、祈るように、そして誇らしげに頷いた。


「……はい! 王都のことは、このベアトリスにお任せくださいませ。必ずや、殿下が戻られるまでに反撃の地盤を固めておきますわ!」


「頼んだぞ。気をつけてな」


私は、漆黒の魔導自動車の運転席に滑り込み、魔力エンジンに火を入れた。


重低音の咆哮が、静かな王城の朝の空気を震わせる。


ハンドルを握る私の手に、グッと力が込められた。


待っていてください、殿下。


私が必ず、貴方を……私たちを救う光を持ち帰ってみせます!


背後で手を振るベアトリス様に見送られながら、私はアクセルを力強く踏み込んだ。


車輪が石畳を蹴り上げ、黎明の光が差し込む王都の門をくぐり抜ける。


非情な経済戦争。


その盤面を根底からひっくり返すため、私は、希望が眠る北の辺境の地へと弾丸のように疾走していった。

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