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第42話 開かずの間の焦燥と決意

……ああっ、もう。


本当にこの人は、どうしてここまで大馬鹿野郎なんですか……っ!


VIP用控室で完全に限界を迎えて倒れ伏したギルバート殿下を抱き上げ、私は誰の目にも触れぬよう、王宮の隠し通路を駆け抜けた。


腕の中にいる己の本来の体が、まるで氷の塊のように冷え切っていることに、私の心臓は恐怖で早鐘を打っていた。


「……しっかりしてください、殿下。もうすぐ部屋に着きますから……っ!」


王宮北の塔、開かずの間。


重厚な扉を蹴り開け、私は彼を寝室の豪奢な天蓋ベッドへとそっと横たわらせた。


暖炉にありったけの魔力石で火をくべ、毛布を何枚も重ねてかける石


しかし、殿下の異常な悪寒は一向に治まらず、ガタガタと震える白い唇からは、苦しげな喘鳴が漏れ続けていた。


「どうして……どうしてここまで無理を……」


私は水を含ませた布で彼の額の脂汗を拭いながら、ギリッと唇を噛み締めた。


ベアトリス様からの思わぬ支援を取り付けることができたとはいえ、事態が好転するまでの間、この商会を持たせていたのは、他でもない彼が限界を超えて流し続けた魔力だったのだ。


私が無力だから。


私が経済の「け」の字も知らないただの侍女だから、彼にすべてを背負わせてしまった。


私が解熱用の魔導具を探そうと、ベッドから離れかけたその時だった。


「……ッ、いか、ないでくれ……」


細く冷たい指先が、私のスーツの袖を力弱く、けれど必死に掴んだ。


振り返ると、殿下がうわ言のように呟きながら、虚ろなアメジストの瞳を開けていた。


「殿下! 気がつかれたのですね、今お水とお薬を……」


「……足りない。まだ、だ。レオンハルトの豚どもの大量生産品を駆逐するには、さらに広範囲で、もっと深く大衆の脳髄に渇望を刻み込む強力な術式が……」


焦点の合っていない瞳のまま、殿下はふらふらとベッドから身を起こした。


毛布が滑り落ち、彼は床に崩れ落ちるようにして這いつくばると、傍らに転がっていた魔力を帯びたチョークを握りしめた。


「で、殿下!? 何を……ッ」


「明日だ。明日の昼、もう一度王都の中央広場で大規模なプロモーションを仕掛ける。そこでこの新しい術式を乗せた魔力を、群衆の五感に直接……」


カツン、カツンと。


限界を迎えているはずの腕を震わせながら、殿下は絨毯の上に直接、一心不乱に新たな魔法陣を描き始めた。


……この人、自分が死にかけてる自覚がないんですか!?


「もう、やめてください。殿下!!」


たまらず、私は彼の背後から駆け寄り、その細い手首をガシッと掴んで止めた。


「ッ……! 邪魔をするな、リリア。まだ術式の構築が……!」


「もうとっくに限界を超えているじゃないですか!」


手首を握った瞬間、異常進化した感覚共有のパスを通じて、彼がどれほどの悲鳴を上げているかが、文字通りの激痛となって私の脳髄へと流れ込んできた。


内臓を雑巾のように絞り上げられるような魔力枯渇の苦痛。


頭蓋骨の中で無数の針が暴れ回るようなひどい頭痛。


そして、全身の血液が氷に変わってしまったかのような、恐ろしい低体温症の悪寒。


普通の魔術師ならば、とうの昔に廃人になっているほどの絶対的な致死領域。


それを、彼は強靭な精神力と狂気じみた執念だけで無理やり押さえ込み、血を吐くような思いで術式を編み上げていたのだ。


「こんな……こんな酷い状態で、明日また広場に出るなんて絶対に許しません! 死んでしまいます!」


「死なないさ。僕を誰だと思っている」


殿下は、私の拘束を振り払おうとしたが、極度の貧血に陥った体では、振りほどくことはできなかった。


彼は忌々しげに顔を歪め、それでも無理に口角を上げて、いつものようなドSの笑みを張り付けようとした。


「……離せ、リリア。君はただ、黙って僕の敷いたレールの上で、美しく氷の覇王を演じていればいいんだ。ヴィクトリアの女狐め、僕の覇王を鳥籠に閉じ込めるだと? 笑わせるな。あんな豚どもに、僕たちの市場を……君の未来を奪われてたまるか。明日、必ず盤面をひっくり返してやるから……ッ」


だが、その強がりな言葉とは裏腹に。


接触した肌からドクン、ドクンと流れ込んでくる心の声は、あまりにも悲痛で、そして狂おしいほどに純粋だった。


『(――負けられない。ここで僕が倒れれば、あの冷徹な女狐は容赦なくリリアからすべてを奪う)』

『(――せっかく自分の足で立ち上がった彼女の光を。気高き王道メインルートを、金貨の重みなんかに潰させてたまるか)』


二人の心音が重なり合い、魂の底に沈殿していた殿下の過去の恐怖までもが、私の脳裏にフラッシュバックする。


自分には力がなく、大切な母を理不尽な暴力から守れなかったという、幼き日の彼の癒えない絶望。


そして今、ヴィクトリアから突きつけられた脅威。


『(――もう二度と、大切なものを奪わせはしない。僕の命に代えても。たとえこの肉体が壊れようと、僕の可愛い王子様を、絶対に真の王にしてみせる……ッ!!)』


「……っ、殿下の、ばか」


ボロボロと、大粒の涙が溢れ落ちた。


痛い。


彼の抱えている絶望と、私への深すぎる愛情が、胸を締め付けて痛い。


「ばかです、大馬鹿野郎です。……私の体を、勝手に壊さないでください……っ」


私は、彼の手首を握っていた手を離し、代わりにその背中から、倒れ込むような彼を強く、力強く抱きしめた。


真紅のドレスごと、悪寒に震える愛する半身をすっぽりと包み込む。


「り、りりあ……?」


「殿下は、私のために戦ってくれているのに……殿下の心がこんなに泣いているのに、私は何もできなかった。守られるばかりで……っ」


涙声で嗚咽しながら、私は殿下を床から抱き上げ、強引にベッドへと押し倒した。


「なっ、何をする! 離せ、まだ術式が……ッ」


「術式なんてどうでもいいです! 王位も、商会も、殿下が死んでしまったら何の意味もないじゃないですかッ!!」


私の怒鳴り声に、殿下は目を見開いた。


「お願いですから、休んでください。……私を一人にしないでください」


私は、ベッドに横たわった殿下の胸に顔を埋め、子供のように泣きじゃくった。

パスを通じて、私の痛切な悲しみと、貴方がいなくなることへの恐怖が、彼の傷だらけの心臓に真っ直ぐに突き刺さる。


「…………ああ、くそ」


もはや、彼には私を振りほどいて指一本動かす気力すら残っていなかった。


「……本当に、君は……我が儘な、覇王様だ。少しだけ、休ませて……もらうよ……」


殿下は、力なく自嘲気味に微笑むと、私の銀色の髪をそっと撫でた。


その手がパタリとシーツに落ち、彼は泥のように深い眠りへと落ちていった。


「……殿下?」


私は顔を上げ、静かな寝息を立て始めた殿下の顔を見つめた。


目元には濃い隈ができ、呼吸はまだ少し浅い。


……殿下は、いつも私のために暗闇で泥を被ってくれた。


狩猟祭の時も。夜会の時も。


そして今も、経済という見えない敵を相手に、彼は一人で矢面に立ち、自らを削り続けている。


ならば、自分はどうだ。


彼の用意した舞台で、ただ格好良く剣を振り、綺麗に歩いていただけではないのか。


彼がこれほどまでに私を愛し、真の王にしようと命を懸けてくれているのに、私はそれに甘えていただけだった。


「……私は、氷の覇王。彼が命懸けで守り抜こうとしてくれている、彼の誇りだ」


私は、眠る彼の額にそっと唇を落とした。


そして、涙を拭い、静かに立ち上がる。


スーツのポケットから取り出したのは、ベアトリス様から託された小切手。


そして、昼間に地方の商人から受け取った、鈍い光を放つ青紫色の魔鉱石だった。


経済のことは分からない。


魔術も使えない。


金貨の計算もできない。


それでも、自分は腐っても騎士の娘だ。


そして今は、王子の肉体と、仲間たちの想いを背負っている。


「金で買えないものは、魔術で生み出すんじゃない。……汗と泥に塗れて、この手で掘り起こすんだ」


殿下をこれ以上傷つけさせないために。


レオンハルト殿下の経済包囲網を、外側から物理的にぶち破るために。


今度は私が、貴方のために最前線に立つ番です。


私は、殿下にそっと毛布をかけ直すと、決意を胸に開かずの間の扉を静かに開けた。

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