第41話 迷える婚約者と騎士の選択。譲れない半身
……なんとか今日の対応は終わりました。早く殿下の元へ戻らなければ。
黎明商会の特設ブティック。
表通りの狂騒からようやく解放された私は、ネイビーブルーのスーツの襟元を少しだけ緩め、重い息を吐き出しながらVIP用控室へと続く薄暗い廊下を急いでいた。
新興商人たちの相手をしながらも、異常進化したパス越しに絶え間なく伝わってくる殿下の痛切な悲鳴が、ずっと私の心臓を鷲掴みにしていたのだ。
限界を超えた魔力の行使による、恐ろしいほどの悪寒と虚脱感。
彼が今、控室でどれほど苦しんでいるか、嫌というほど分かっている。
私が足早に廊下の角を曲がろうとした、その時だった。
「――ギルバート殿下!」
張り詰めた、悲痛な声。
薄暗い廊下の影から飛び出してきたのは、金糸の髪を乱した美しい令嬢――第三王子の正式な婚約者である、ベアトリス公爵令嬢だった。
「ベアトリス……? なぜ、このような所に」
「お話ししなければならないことがあって、ずっとお待ちしておりましたの! 殿下が群衆から離れて、お一人になられるのを……っ」
ベアトリス様の翡翠色の瞳には、いっぱいの涙が溜まっていた。
彼女は重厚なドレスの裾を強く握りしめ、まるで何かに追い詰められているかのように、私の胸元にすがりついた。
「殿下、どうか目を覚ましてくださいませ! ヴィクトリア様からお聞きしました。殿下は……あのメイドに、魔術で騙され、洗脳されていると!」
「……ヴィクトリアが、そう言ったのですか」
「ええ! あの女は毒婦です! 殿下を孤立させ、自分に依存させて破滅へと導こうとしているのです!」
ベアトリス様の声は震えていた。
「お願いです、殿下! あんな女は捨てて、私を……我がローゼンブルク公爵家を頼ってください!」
彼女は、私のスーツの胸元を必死に掴み、涙ながらに懇願した。
「第二王子殿下の経済封鎖も、我が公爵家の財力と人脈があれば、必ず打ち破る糸口が見つかるはずです。ですから……どうか、あの女だけは切り捨てると、約束してくださいませ……っ」
静寂が、薄暗い廊下に降りた。
私は、すがりつくベアトリス様の震える肩を見下ろした。
……お父様。こういう時、貴方ならどうしましたか。
私の脳裏に、かつて無実の罪で投獄された、誇り高き騎士であった父・ヴァレリウスの後ろ姿が浮かんだ。
父は、権力に阿ることなく、自らの信じる忠義と愛を貫き通した。
損得勘定で切り捨てるような生き方は、騎士の娘である私の魂が絶対に許さなかった。
なにより、私には分かっている。
あの傾国のメイドの姿をして、誰よりも不器用に、命を削って私を守ろうとしてくれている彼の痛いほどの愛情を。
「……ベアトリス嬢。君に、寂しい思いをさせてしまったことは謝罪しよう」
私は、自分の胸を掴む彼女の両手を、大きな王子の手で優しく包み込み、そっと引き剥がした。
「ですが、私は洗脳などされていません。彼女の魔術は、私を操るためのものではない。……私を王にするため、彼女自身が血を流して道を切り開くためのものです」
「で、殿下……?」
「彼女を切り捨てれば、確かに楽になるかもしれない。公爵家の力は喉から手が出るほど欲しい。……だが、あのメイドは私の『半身』だ。彼女のいない世界で玉座に座るくらいなら、私は王冠など要らない」
……これは紛れもない、彼に対する私の忠義と誠愛の証明です!
「君の想いには、私のこの心臓では応えられない。……だが、それでも。もし君が、第二王子の言いなりになる今の因習にまみれた王都を良しとしないのなら」
私は、一歩下がり、公爵令嬢である彼女に向かって、深々と頭を下げた。
「どうか、私たちの商会に……私と彼女に、力を貸してくれないだろうか。共に、新しい時代を作るために」
ベアトリス様の目から大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
「……っ、殿下は。殿下は、本当に……ずるい方です」
ベアトリス様は泣き崩れそうになりながら、私の広い胸にドンッと額をぶつけ、そのまま強く抱きついた。
「……分かりましたわ。ヴィクトリア様のあの余裕ぶった顔、私だって昔から大嫌いでしたのよ!」
彼女は涙を乱暴に拭い、公爵令嬢としての勝気な笑みを浮かべて顔を上げた。
そして、ドレスの隠しポケットから一枚の紙切れを取り出し、私の手に力強く押し付けた。
「これは、私の個人資産の小切手です! 公爵家全体を動かすには時間がかかりますが、これならすぐに使えますわ!」
「ベアトリス……! こんな大金……っ」
「それに、私だって腐っても公爵令嬢です! 社交界での影響力なら、あの爆乳メイドにも負けませんわ。商会のイメージガールでも何でもやって差し上げます! 第二王子派の安物に、私のブランド力で目にもの見せてやりますわ!」
強力な、そして何よりも心強い味方。
彼女の不器用だが真っ直ぐな支援の申し出に、私は驚き、そしてふっと、心からの安堵と感謝の笑みをこぼした。
「ありがとう、ベアトリス嬢。君のこの想い、絶対に無駄にはしない」
私は小切手を握りしめ、己の魂に誓った。
殿下は魔術で身を削ってくれている。
ベアトリス様は己の財と名誉を投げ打ってくれた。
ならば、自分は。
彼らの支援に応え、この絶望的な包囲網を完全に破壊するための突破口を、自分自身の足で見つけ出さなければならない。
……待っていてください、殿下。
私が必ず、貴方の苦しみを終わらせますから!
ベアトリス様に感謝を告げ、私は急ぎ足で廊下を駆け抜け、VIP用控室の扉を勢いよく開け放った。
「殿下、遅くなりました……ッ!?」
しかし、そこで私が見たのは、床に崩れ落ちるように倒れ伏している真紅のドレス姿の殿下だった。
「殿下ッ!!」
私は血の気を引かせて彼に駆け寄る。
氷のように冷え切った体を抱き起こし、王宮の北の塔、開かずの間へと一刻も早く連れ帰るべく、裏口へと走るのだった。




