第40話 女狐の毒牙と迷える婚約者
【視点:ヴィクトリア】
特設ブティックのVIP用控室から逃げるように退出した私は、人気のない裏路地に停めてあった自身の豪奢な馬車に滑り込むなり、ドレスの胸元を強く握りしめた。
「はぁっ、はぁっ……!」
冷徹な公爵令嬢として完璧に作り上げていた氷の令嬢の仮面が剥がれ落ち、ひどく乱れた呼吸が馬車の中に響く。
震える指先で扇子を握り直し、ギリッと奥歯を噛み締めた。
なんなのですか、あの女は……!
あのような純粋な狂気、損得勘定の通じない化け物……!
あのメイド――ヴァレリウスの娘が放った、ドス黒い殺気と威圧感。
思い出すだけで、私の背筋に氷のような冷や汗が伝う。
「命だけは救ってやる」という、私なりの最高に慈悲深くて合理的なディールの提案に対し、あの女はなんと言ったか。
『思い上がるなよ、下賤な豚の番が』ですって!?
あんな、物理法則を無視した規格外の双丘を揺らすだけの愛人メイドが、次期王妃たるこの私に向かって!
でも、あの女はただの野心家や金目当ての愛人ではない。
第三王子のために己の命すら躊躇なく燃やし尽くす、本物の狂信者だ。
あのような劇薬を野放しにしておけば、愛しのレオンハルト様が築き上げた盤石な経済包囲網すら、いつか必ず内側から物理的に食い破られる。
私の女の勘が、確信を持ってそう告げていた。
胸部での屈辱を抜きにしても……あの特級サキュバスだけは、決して生かしておいてはなりませんわ!
「……レオンハルト様には、あの女への対策を急ぐよう進言しなければ。ですが、その前に……」
私が乱れた呼吸を整え、馬車の窓からブティックの周辺を警戒するように見回した時だった。
表通りの喧騒から少し離れた木陰で、護衛の騎士を連れて立ち尽くしている一人の少女の姿が目に留まった。
「……あれは」
金糸のように美しいブロンドの髪を丁寧に結い上げ、流行とは無縁の、しかし一目で最高級品と分かる格式高い重厚なドレスを身に纏った令嬢。
由緒正しきローゼンブルク公爵令嬢――ベアトリス・フォン・ローゼンブルク。
――他でもない、第三王子ギルバートの正式な婚約者であった。
ベアトリス様は、ブティックのバルコニーで群衆に手を振る第三王子の姿を、唇を噛み締めながら、どこか縋るような、そして酷く傷ついたような目で見上げていた。
……なるほど。
これは、盤面をひっくり返す最高の手札になるかもしれませんわね。
私は、先ほどまでの恐怖を優雅な令嬢の微笑みの下へ隠し込むと、気品ある足取りで馬車を降り、ベアトリス様へと近づいていった。
「――奇遇ですわね、ベアトリス様。このような喧騒の中で、貴女のような高貴なご令嬢とお会いするとは」
「……ヴィクトリア様」
声をかけられたベアトリス様は、ハッとして振り返った。
その美しい瞳には、咄嗟に隠しきれなかった悔し涙の痕が微かに滲んでいる。
「第二王子殿下の婚約者であられる貴女こそ、このような場所で何を? 敵情視察、というわけでもないのでしょうけれど」
「ええ、少しばかり買い物を、ね。……それより、ベアトリス様」
私は、扇子で口元を隠しながら、同情をたっぷりと含ませた声で囁いた。
「お可哀想に。……王都中があのように熱狂しておりますけれど、本来、あの第三王子殿下の隣に立ち、新しい商会を共に支えるべきは、正式な婚約者である貴女のはず。それなのに、殿下は貴女に何の相談もなく、あのような下賤な爆乳メイドを侍らせて……」
「……ッ! 言葉を慎んでくださいませ!」
ベアトリス様は、公爵令嬢としての矜持を保ち、私をキッと睨みつけた。
「ギルバート殿下には、殿下なりのお考えがあってのこと。私に相談がなかったのは……ただ、お忙しかっただけです。あのメイドも、今は商会の宣伝のために一時的に利用しているに過ぎませんわ!」
ふふっ。強がってはいますけれど、心の中は嫉妬と不安でボロボロですわね。
「貴女は本当に、健気で純真な方ですわね」
私は、彼女の心の柔らかい部分に、ゆっくりと、確実に猛毒を流し込む。
「ですが、現実から目を背けてはなりませんわ。私は先ほど、偶然あのVIP控室の前を通りかかり、見てしまったのです。……あのメイドの、真の恐ろしさを」
「真の、恐ろしさ……?」
「ええ。殿下があのメイドを利用している? 逆ですわ。……殿下は、あの女に完全に洗脳されているのです」
私の言葉に、ベアトリス様が息を呑む。
「あ、ありえません! 殿下は、そのような柔な精神の方では……!」
「貴女も知っているでしょう、あのメイドがどれほど常軌を逸した色香を放っているか。あの女は、魔術と淫靡な手練手管で殿下から理性を奪い、自分に依存させているのです。殿下は今、脳みそをピンク色に染め上げられた、あの毒婦の操り人形に過ぎませんわ」
私は、わざとらしく悲痛なため息をついた。
「このままでは、第三王子殿下はあの女と共に、破滅の道を突き進むことになります。王都の経済を敵に回し、いずれ身の破滅を招く。……いいえ、あの女は、殿下を自分だけのものにするために、わざと孤立させようとしているのかもしれません」
「そんな……」
ベアトリス様の顔から、血の気が引いていく。
私の言葉は半分が偽装情報だが、半分は真実。
「ベアトリス様。私は敵対する派閥の人間ではありますが、同じ王族の未来を担う者として、殿下が下賤な毒婦にたぶらかされ、堕ちていくのを見るのは忍びないのです」
そっと彼女の冷たくなった手を握った。
「あの魔性の女の洗脳から殿下の目を覚まさせ、泥沼から救い出せるのは……正当な婚約者であり、殿下を誰よりも愛しておられる、貴女しかいないのではありませんか?」
「私が……殿下を、救う……」
ベアトリス様の瞳に、迷いが消え、代わりに強い使命感が宿り始めた。
ええ、そうです。
貴女はただ待っているだけの飾りの婚約者ではない。
彼が狂ったメイドの毒牙にかかっているのなら、自分が真っ向から彼と対峙して真実の愛で救い出さなければならない……。
そう思い込みなさい。
「……ヴィクトリア様。ご忠告、感謝いたします。私は……私のすべきことをいたしますわ」
「ええ。貴女の勇気ある行動が、殿下を救うことを心よりお祈りしておりますわ」
ベアトリス様が、決意に満ちた足取りでブティックの控室の方角へと歩き出すのを、私は、扇子の陰で冷酷な笑みを深めながら見送った。
さあ、どう出ますか、第三王子殿下。
そして、ヴァレリウスの娘。
……正当な婚約者という身内からの刃を前に、貴方たちの絆がどこまで持つか、見物ですわね。




