第39話 氷の悪寒と女狐の忠告。逆鱗に触れた傾国の悪女
【視点:ギルバート】
第二王子レオンハルトが仕掛けた容赦のない経済包囲網が、王都の流通を完全に締め上げていた。
資金も物資も絶たれた僕たち第三王子陣営の命綱は、僕の魔術で大衆の熱狂を扇動する情報戦ただ一つに絞られていた。
「……さあ、リリア。次は南区のオペラ座だ。その次は新興商人たちが集う夜会、そして文化人の文学サロン。一瞬たりとも、大衆の脳裏から僕たちの美しさと新しい時代の熱狂を消させるな」
王都随一の格式を誇る大劇場の特別観覧席。
装飾を削ぎ落とした豪奢なネイビーブルーのスーツを着こなすリリアの傍らで、真紅のオーガニック・ドレスを纏った僕、ギルバートは、艶やかな微笑みを絶やさず、眼下の貴族や富裕層たちに向けて優雅に扇子を振っていた。
僕が流し目を送るたび、微弱だが極めて精密に練り上げた精神魅了の魔力が、目に見えない甘い香水のように劇場中へ降り注ぐ。
「ああ……ギルバート殿下……! そして麗しのメイド様……!」
「なんて気高く、洗練された美しさだ……!」
「レオンハルト殿下の無骨な鉄屑など、彼らの足元にも及ばない!」
観衆から上がる熱狂的な溜息と、理性を溶かされたような歓声。
第二王子の圧倒的な大量生産品に大衆の足が向かおうとするのを、僕は己の魔力と美貌を削って、強引に自らのブランドへと繋ぎ止めていた。
『(で、殿下……いくらなんでもペースが異常です。今日のサロン訪問はこれで五件目ですよ!? もう休まないと……っ)』
エスコートのために僕の腰を抱くリリアから、悲痛な念話が届く。
彼女のそういう優しさがたまらなく愛おしくて、このまま大衆の前でドロドロに甘やかして理性を溶かしてしまいたい衝動に駆られるが、今は耐えるしかない。
「(気にするな。熱狂とは生ものだ。僕たちの歩みが止まれば、奴らの小銭の波に一瞬で飲み込まれる。……ほら、リリア。あそこの大商人に、氷のような冷たい視線を送ってやれ。それで彼の財布の紐は完全に崩壊する)」
僕の指示に従い、リリアは不安げながらも、懸命に完璧な氷の覇王を演じ続けてくれている。
だが、彼女に触れている僕の指先は、まるで死人のように恐ろしいほど冷え切っていた。
異常進化した感覚共有のパスを通じ、リリアには僕がひた隠しにしている鋭い耳鳴り、視界の明滅、そして骨の髄から凍りつくような悪寒が伝わってしまっているはずだ。
普通の魔術師ならとうにMPが枯渇して昏倒している限界点。
それを、僕は狂気じみた気力だけでねじ伏せていた。
◇
その日の夕刻。
王都の中央広場に面した、黎明商会の特設ブティック。
群衆の熱狂から逃れるように、その裏手にひっそりと設けられたVIP用控室へと入った瞬間だった。
「……ッ、ゴホッ、ゲホッ、ゴホッ……!!」
リリアが外の警備と馬車の確認に向かい、部屋に一人になった途端。
僕は豪奢なソファに沈み込むように倒れ伏し、内臓を雑巾のように絞り上げるかのような激しい咳き込みに襲われた。
「ガハッ、ゲホッ……っ、あ……ぁ……」
連日の過剰なメディア露出と、不特定多数の群衆の心を繋ぎ止めるための広範囲な精神干渉。
それがもたらしたのは、極度の魔力欠乏症だった。
眩暈で視界が白く飛び、暖炉の火が燃えている控室だというのに、重度の低体温症に酷似した危険な悪寒が全身を支配している。
指先は氷のように冷たく、ガタガタとドレス越しの肩が止めどなく震え、奥歯がカチカチと鳴るのを抑えきれない。
……くそっ。レオンハルトの豚め、どこまでも小銭で市場を荒らし回りやがって……ッ。
だが、僕の覇王はあんな小銭の山には屈しない……!
乱れた息を整え、再び熱狂する群衆の待つ表舞台へ出ようと、震える足で立ち上がったその時だった。
「――随分と、お疲れのようですわね。麗しの専属メイド様」
カツン、と。
控室の張り詰めた空気を切り裂く硬質なヒールの音と共に、一人の令嬢が姿を現した。
夜の闇を思わせる漆黒のドレス。
扇子の奥からこちらを値踏みするように見据える、氷のような切れ長の瞳。
第二王子レオンハルトの婚約者であり、王都随一の冷徹な頭脳を持つとされるクロムウェル公爵令嬢、ヴィクトリアだった。
「……何の用ですか、クロムウェルのご令嬢殿。ここは関係者以外立ち入り禁止ですよ」
僕は悪寒に震える体を必死に御し、アメジストの瞳を細めて警戒の念を隠さずに睨みつけた。
ヴィクトリアは扇子をパチンと閉じ、まるでチェス盤の上の駒を動かすような、酷薄で計算高い笑みを浮かべた。
「ご忠告に参りましたのよ。ヴァレリウスの娘。……そろそろ、無駄な抵抗はやめにしたらどうです?」
「無駄な抵抗、ですって?」
「ええ。市場の数字は嘘をつきません。貴女たちがどれほどご立派にサロンや劇場を回り、大衆を熱狂させようと、我がレオンハルト様の圧倒的な資本力の前には蟷螂の斧。すでに貴方たちの商会の物流は死んでいます。数日後には完全に資金がショートし、第三王子陣営は破産しますわ」
ヴィクトリアは、ゆっくりと僕に近づき、その冷え切った耳元で毒を吐くように囁いた。
「女の勘は侮れませんのよ。……あの引きこもりだった第三王子をここまで仕立て上げたのは、彼自身の才覚ではなく、すべて裏で糸を引いている貴女でしょう?」
眉がピクリと動く。
「ですから、ディールの提案です」
ヴィクトリアは、悪魔のように甘く、そして残酷な声を出した。
「今すぐ、第三王子殿下の元から去りなさい。彼を見捨て、二度と戻らないと誓うのです。……そうすれば、残された哀れな王子殿下の『命』だけは救って差し上げますわ。王位継承権を放棄させ、田舎の辺境領地で一生、鳥籠の中の鳥として平穏に生かしてあげる。悪い取引ではないでしょう?」
――ピキッ。
その言葉を聞いた瞬間。
僕の心臓を覆っていた低体温症の氷が、ドス黒く燃え盛る地獄の業火によって一瞬にして蒸発した。
リリアの元から去れ。
リリアからすべてを奪い、鳥籠に閉じ込める。
ヴィクトリアのその言葉は、損得勘定で動く彼女にとっては最も合理的で慈悲深い提案のつもりだったのだろう。
だが、それは僕にとって、絶対に触れてはならない、魂の根幹を抉る逆鱗だった。
……大切なものを、また僕から奪うというのか。
かつて、醜い権力闘争の中で生母を奪われた幼き日の絶望。
そして今、ようやく見つけた、自分の魂を懸けてでも守り抜きたいと願った唯一の光。
自らの足で立ち上がり、気高き騎士の誇りを胸に氷の覇王として美しく咲き誇ろうとしている彼女を、こんな薄汚い金貨の計算で切り捨て、あまつさえ誇りを奪って生き恥を晒させろと言うのか。
「……ふふっ。あははははっ!」
僕の口から、突如として妖艶で、そして狂気を孕んだ笑い声が弾けた。
「去れ、だと? 命だけは救ってやるだと? ……思い上がるなよ、下賤な豚の番が」
「なっ……!?」
ヴィクトリアが息を呑んで後ずさった。
「僕の覇王を鳥籠に閉じ込めるだと? 笑わせるな。第三王子は真の王だ。お前たちのような薄汚い商人崩れが、第三王子の光を奪えるものか」
真紅のドレスを翻し、ヴィクトリアをゴミでも見るかのように冷酷に見下ろした。
「よぉく覚えておけ、女狐。僕が、必ず彼女を王にする。お前たちのその小銭の山ごと、僕の魔術で跡形もなく焼き尽くしてやるから、首を洗って待っていろ」
ヴィクトリアは表面上こそ冷徹な表情を崩さなかったが、ドレスの下の足は恐怖でガタガタと震えていた。
「……交渉は決裂ですわね。必ず、後悔させて差し上げますわ」
ヴィクトリアは震える声でそう言い捨てると、逃げるように控室から立ち去った。
◇
ヴィクトリアの気配が完全に消えた直後。
僕は、糸が切れた操り人形のようにグラリと姿勢を崩し、再び床に膝をついた。
「ゴホッ、ゲホッ、ガハッ……!!」
喉の奥から込み上げる乾いた咳が止まらない。
怒りに任せて無理やり引き出した魔力の反動で、貧血の眩暈が先ほどよりも強烈に脳を揺らし、歯の根が合わないほどの恐ろしい悪寒が再び全身を支配する。
……時間がない。あの豚どもは、必ず強硬手段に出てくる・
僕は、震える両腕で自らの体を強く抱きしめた。
あの冷徹な女狐が、言葉の脅しだけで引き下がるはずがない。必ず、物理的な罠を仕掛けてくるはずだ。
待っていろ、リリア。
僕の魂に代えても……君の未来は、僕が守る。
薄れゆく意識の中で、僕は最愛の人の気高き横顔を思い浮かべながら、血の滲むような決意を固めていた。




