第37話 資本の暴力とすり減る魂。
王都を席巻した第三王子と傾国のメイドの熱狂は、設立されたばかりの黎明商会に、莫大な初期投資と爆発的な売上をもたらした。
だが、その華々しい勝利の美酒は、長くは続かなかった。
狂騒からわずか五日後。
王都の経済は、第二王子レオンハルトが放った冷酷無比な資本の暴力によって、瞬く間に息苦しいほどの閉塞感に包まれたのである。
「……殿下。今朝から、西区と南区の卸売市場からの素材搬入が完全にストップしています。契約していた馬車ギルドが、突然すべての輸送をキャンセルしてきました」
王宮北の塔、開かずの間。
私は床にまで散乱する帳簿と、山積みにされた契約破棄の報告書を掻き集めながら、隠しきれない焦燥感に顔を青ざめさせていた。
「馬車ギルドだけじゃありません。香水の原料を納品するはずだった鉱山街の元締めも……軒並み、莫大な違約金を払ってでも我々との関わりを断つと。完全に、補給線を物理的に切断しにきています」
机に広げられた王都の流通網を示す地図は、第二王子派閥を示す赤色のピンによって完全に包囲されていた。
執務机の奥で、真紅のドレスを纏ったギルバート殿下が、忌々しげに舌打ちをする。
「……流石は王都の流通を牛耳るインテリ眼鏡だ。市場での価格競争の前に、まずは我々の物資供給の血脈を絶ちにきたか」
どんなに素晴らしいブランドを構築し、大衆を熱狂させようとも、商品を作るための材料が届かなければ商売は成り立たない。
だが、レオンハルト殿下の苛烈な反撃は、それだけには留まらなかった。
「さらに……今日から王都の主要な大通りで一斉に売り出された商品がこれです」
机の上にドン、と荷物を置いた。
それは、殿下がデザインしたモダン・ドレスとよく似た安価な大量生産品と覇王の香水を粗悪な素材で模倣した、まがい物の香水だった。
「大陸外の巨大な紡績工場をフル稼働させ、私たちの限定商品の模倣品を市場に氾濫させました。……価格は、なんと我々の十分の一です。現在、黎明商会の売上はピーク時の三割以下。このままでは、集めた投資資金も数週間で完全に底をつきます!」
どれほど希少性という付加価値を提供しようとも、人々の生活には現実という壁がある。
熱狂の魔法は徐々に解け、大衆の足は否応なくレオンハルト側の店舗へと向かってしまう。
報告を終えた私は、たまらず頭を抱えてソファに突っ伏した。
ああっ、もうダメです……!
私はしがない侍女でしかないのに、こんな国規模の経営なんて耐えられません……っ!
「……暗い顔をするな、僕の可愛い覇王様。不安でプルプル震える小動物のような君も庇護欲をそそられるが、やはり君には堂々とした氷の視線が似合う」
ふわり、と。
背後から極上のフェロモンが香り、私の首筋に、殿下の柔らかな唇が落とされた。
「ひゃんッ!?」
――ビクゥッ!
瞬間、異常進化した感覚共有のパスを通じ、致死量スレスレの快楽が私の脳髄に直接叩き込まれた。
「あ、ああっ……で、殿下ぁ……っ、な、何をするんですかっ」
「不安なんだろう? だから、強引に元気づけてやろうと思ってね。ほら、もっと熱くなれ」
「ひぃっ、ちが、それエールじゃなくて、ただのセクハラ……!ハラスメントっ!」
「身体は素直だな」
私は涙目でビクビクと震えながらも、殿下の強引な快楽攻めによって、半ば無理やり絶望という感情を上書きされてしまった。
だが、強烈すぎる刺激のおかげで、冷水を浴びたようにハッと目が覚める。
……違います。
私が守るべき本質。
お父様が教えてくれた、気高き騎士の矜持。
剣が届かないからといって、ただ絶望して彼に慰められ、甘い言葉で誤魔化されているだけの客寄せ精霊になるつもりはありません。
私は、彼と肩を並べる王になるんです!
息も絶え絶えに気を取り直した傍らで、殿下は苛立ちを隠すように前髪をかき上げた。
その時。
――ドクン、と。
パスを通じて、胸の奥に、殿下の感情がどろりと流れ込んできた。
……ッ、殿下?
私はハッとして、殿下の顔を見つめる。
手元のティーカップを持つ指先が、微かに、だが確実に震えていた。
『……まだだ。まだ負けたわけじゃない。奴らが量で来るなら、僕はさらに強力な魔術で、王都中の民の脳髄に直接「熱狂」を叩き込んでやる。僕の覇王のブランドは、こんな小銭の山には絶対に屈しない……ッ』
パス越しに伝わってくるのは、狂気すら孕んだ執念。
そうだ。
大衆を魅了し続けるためには魔力消費に加えて、尋常ではない精神的負荷があるはず!
並みの魔術師ではなしえない、大規模魔術。
彼は、私に悟られないように、無理をして平気なフリを張っていただけなんだ。
「殿下、いけません! これ以上、広範囲の魔術を酷使すれば、貴方の魂が……持ちません!」
私は机に手をつき、悲痛な声で叫んだ。
「黙れ、リリア。僕は神童だ、これしきの魔力消費など……」
「強がらないでください! パスが繋がっている私には、分かっているんです!」
私は机を回り込み、無理をして立ち上がろうとした殿下の肩を強く掴み、ソファへと強引に押し倒した。
「リリア……?」
「今日から三日間、殿下には休んでもらいます!魔術の使用は一切禁止です!」
その細い腕から伝わってくるのは、強大な魔力ではなく、空虚なまでの疲弊感。
彼は、私を勝たせるために、すべてを一人で背負い込もうとしていた。
「……君に、あんな豚どもの前で敗北者の顔をさせるわけにはいかないんだ。君は僕の、誰よりも誇り高き覇王なんだから」
ソファに押し倒されたまま、殿下が苦しそうに呟いた。
その痛いほどの想いに、私の胸がギュッと締め付けられる。
剣も振るえず、魔術も使えず、ただ帳簿の数字に怯えるだけの自分が、ひどく不甲斐なかった。
このままじゃダメだ。
私が、彼を守らなければ。
彼が私のために命を削るなら、私は私のやり方で、この絶望的な盤面をひっくり返さなければならない。
私が彼の盾であり、剣なのだから!
私は、ソファに横たわる彼の額にそっとキスを落とした。
安心させるように、深く、優しく。
「大丈夫です、殿下。貴方の覇王は、これくらいで膝をついたりはしません。殿下はゆっくり休んでいてください。……私が必ず、解決策を見つけてみせます」
私にできることは、ただ守られていることじゃない。
現場を走り、泥水に塗れ、汗を流して活路を見出す。
それこそが、侍女の……騎士の娘の、本当の戦い方だ。




