第34話 甘い毒と強烈な目覚め。経済戦争の宣戦布告
私が特設ステージの前でレオンハルト殿下と対峙し、大広間を重苦しい静寂が支配していたその時。
乾いた拍手の音が、その静寂を破った。
「……素晴らしい。さすがは我が弟、そしてその隣に立つ麗しきレディだ。旧態依然とした貴族社会の常識を打ち破るその精神、このレオンハルト、心から称賛しよう」
第二王子レオンハルト殿下は、完璧な商人の笑みで覆い隠し、ゆっくりと大階段を降りてきた。
怒りで我を忘れて自滅した第一王子ヴォルフガングとは違う。
彼はどこまでも冷徹な、利益を追求する怪物だ。
「しかし、弟よ。君たちのその類まれなる知性と美貌を、無益な権力闘争で擦り減らすのは国家の損失だと思わないか?」
レオンハルト殿下は、給仕から受け取った二つのワイングラスのうち一つを、差し出してきた。
「ヴォルフガング兄上のような、血で血を洗う野蛮な後継者争いはもう終わりにしよう。見ての通り、海の外からはあの魔導自動車のような強大な『外資』と『技術』が押し寄せている。我々が内輪揉めをしている間に、この国は他国の資本に飲み込まれてしまうのだ」
彼の声には、人を絡め取るような不思議な説得力があった。
まるで耳元で極上の音楽を奏でるように、心地よく、そして理路整然と響く。
「どうだろう、ギルバート。私の傘下に入らないか? 君が持つその圧倒的なカリスマ性と軍事的な象徴としての力。そして私が持つ、大陸全土を網羅する資本と流通網。我々が手を組めば、この国は外敵を退け、永遠の繁栄を約束される。もう、誰も血を流さなくていいんだ」
その言葉は、私の胸の最も柔らかい部分を正確に突いた。
狩猟祭での死闘。夜会での暗殺者たちとの血まみれの殺し合い。
そして、私のお父様が巻き込まれたような、陰惨な権力闘争。
……もし、レオンハルト殿下と手を組むことで、これ以上無駄な血が流れるのを防げるのなら。
彼に玉座を譲り、私と殿下は争いから身を引くことができるのなら……。
戦わなくていい。血を見なくていい。その誘惑は、あまりにも強かった。
私がグラスを受け取ろうと、微かに指先を伸ばしかけた、その刹那だった。
――バチンッ!!!!
「(ひゃんッ!?)」
私の脳髄から脊髄を通り、腰の奥底へと、まるで落雷に打たれたような強烈な快楽の電流が突き抜けた。
異常進化した感覚共有のパスを通じ、隣に立つギルバート殿下から、致死量スレスレの純粋なエクスタシーが、なんの予備動作もなく叩き込まれたのだ。
「(ん、くぅ……ッ、あっ……!?)」
一瞬、私の視界が白く飛び、膝から崩れ落ちそうになる。
間一髪で殿下のしなやかな腕が私の腰を抱き留めたため、なんとかなかったが、私の顔は、限界まで熱を帯びて朱に染まっていた。
「(なっ、何をするんですかっ、殿下!! こんな公衆の面前で!?)」
『目を覚ませ、馬鹿犬。あんな甘言に騙されるな』
鼓膜の奥に、氷のように冷たく、そして激しい怒りを孕んだ殿下の念話が響く。
『奴の言う『傘下』とは、首輪をつけて家畜にするという意味だ。血を流さない? 笑わせるな。奴は経済という目に見えない暴力で、君の父上のような実直な人間からすべてを搾取し、餓死させてきたんだぞ。……君の誇りを、小銭で売り渡す気か?』
「(ッ……!)」
殿下の容赦のない、だが真実を突く言葉に、私は冷水を浴びせられたようにハッと我に返った。
そうです……! 武力であれ経済であれ、弱者を踏みにじるやり方は、私のお父様が守りたかった騎士道とは対極にあるものです!
危うく幻惑の魔法に絡め取られるところだった。
私を支えるように密着していた殿下が、艶然とした笑みを浮かべて前に出た。
真紅のドレスのスリットから覗く白磁の脚が、レオンハルト殿下の視線を否応なしに引きつける。
「……レオンハルト殿下。随分と都合の良いパートナーシップの提案ですこと。ですが、お断りいたしますわ。我が至高なる殿下の器は、貴方のような小銭稼ぎの商人の傘下に収まるほど、小さくはありませんの。……殿下を縛り付けたければ、その見せ掛けの金貨の山ではなく、もっとマシな鎖をご用意なさることね」
公の場で、一介のメイドが第二王子に向かって放った、完全なる侮蔑。
広間が凍りつく中、レオンハルト殿下の顔からついに商人の笑みが消え去り、爬虫類のような冷酷な光がその瞳に宿った。
「……弁えよ、女。これは王族同士の、国家の未来を懸けた対話だ。商売の『し』の字も知らぬ深窓の王子と、ベッドの上で腰を振ることしか知らぬメイドが、口出しして良い領域ではない」
レオンハルト殿下は、侮蔑には侮蔑で返し、私を射抜くように睨んだ。
「剣で人は斬れても、経済の波は斬れん。海を越えてやってくる巨大な外資というバケモノの前では、個人の武力など無力だ。ギルバート、お前に資本と流通を回す知恵があるというのか?」
圧倒的な現実。数字と資本の暴力。
ただの侍女である私には当然、国家規模の経済や貿易の知識など持ち合わせていない。
どう反論すべきか言葉に詰まったその時、私の腕に絡みついていた殿下が、悪魔のように魅惑的な高笑いを上げた。
「ふふっ……あははははっ! ええ、ええ、笑わせてくれますわね!」
殿下は、私の胸元にそっと頬を寄せ、周囲の貴族たちにその圧倒的な愛人マウントを見せつけながら、高らかに宣言した。
「我が殿下を誰だと思って? 殿下は、剣や魔術における絶対の覇王であると同時に、あらゆる知を統べる神童。……経済の盤面であろうと、貴方のような時代遅れの成金を出し抜くことなど、造作もありませんわ!」
「(で、でででで殿下ァァッ!?)」
私は心の中で絶叫した。
剣の稽古と侍女の仕事しかしてこなかった私に、経済戦争で勝てるわけがないじゃないですか!
しかし、殿下は意に介さず、私の顔を仰ぎ見て妖艶にウインクをした。
その瞳は『僕がすべて何とかしてやるから、堂々としていろ』と語っていた。
「……ほう。そこまで言うか」
レオンハルト殿下は、大仰なため息を一つ吐き、グラスのワインを飲み干した。
そして、獲物を罠にかけた狩人のような、冷酷で狡猾な笑みを浮かべる。
「よかろう。兄上のように血生臭い殺し合いをする趣味は、私にはない。ならば、もっとスマートでシンプルな勝負をしようじゃないか」
彼は、私の眼前に歩み寄り、挑戦状を叩きつけるように言った。
「経済の力で、どちらが真の王に相応しいか白黒つける。……これから一ヶ月の間、お互いの商会と資本を動かし、どちらがより莫大な利益を生み出し、市場を支配できるかの競争だ」
い、一ヶ月!? そんな短期間で、素人が大商人に勝てるわけが……!
『(受けて立て。リリア)』
殿下の強気な念話に後押しされ、私もまた、氷の覇王の完璧な威厳をもってその勝負を受諾した。
「ただし」
レオンハルト殿下が目を細め、私の腕に抱かれたギルバート殿下を、卑猥に舐め回すように見た。
「私が勝った暁には、お前は王位継承権を放棄し、私の完全な傀儡となれ。そして……お前のその、吠えるのが得意な美しい雌犬は、私のベッドでたっぷりと教育し直してやる」
――ピキッ。
その瞬間。
私の中の、絶対に切ってはいけない『堪忍袋の緒』が、完全に、そして物理的な音を立ててブチ切れた。
自分を侮辱されるのは構わない。傀儡になるリスクも覚悟の上だ。
だが、私の大切な体であり、私の魂の半身である彼を、下劣な欲望の道具として見られたことだけは、絶対に許せなかった。
彼に触れていいのは、私だけだ。
「……その言葉、後悔させてやりますよ。兄上」
私は、ギルバート殿下を庇うように強く抱き寄せ、レオンハルト殿下を射殺すような目で睨みつけた。
レオンハルト殿下は微かに息を呑み、一歩後ずさった。
『(……ああ、本当に。君のそういう所、たまらなく愛おしいよ)』
腕の中で、ギルバート殿下がこっそりと私の背中を撫で上げる。
ええ、やってやりますよ。私と殿下の誇りを汚した罪、その見せ掛けの金貨ごと叩き潰してやります!
こうして、血の一滴も流れない、しかし国家の根幹を揺るがす最も苛烈な経済戦争の火蓋が、大勢の貴族たちが見守る前で切って落とされたのだった。




