第30話 開かずの間の密月。溶け合う過去と覇王の甘き命令
華やかなワルツの旋律と、血と硝煙、そして致死量のフェロモンが入り交じる狂乱の夜会から数時間後。
王宮の北の塔、外界のあらゆる喧騒から完全に隔離された開かずの間には、ただ静かで、どこか甘やかな月明かりだけが満ちていた。
私は、豪奢なベルベットのソファに、漆黒の夜会服を着崩したままぐったりと身を沈めていた。
指一本動かすのすら億劫だ。
第一王子派の完全なる失脚と、王室の秘宝『黎明の聖剣』の奪還。
そして何より、大好きだったお父様に無実の罪を着せた真の黒幕を、大勢の貴族の面前で完膚なきまでに叩き斬ってやったのだ。
「ああ。君の父上の無念も、僕の目障りな障害も、今夜ですべて片付いた」
衣擦れの音と共に、隣のクッションが深く沈み込んだ。
ふわりと、むせ返るような極上の薔薇と麝香の香りが鼻腔をくすぐる。
隣に腰を下ろしたのは、凄惨な死闘を潜り抜けてきたとは思えないほど、塵一つなく美しい真紅のドレスを纏ったギルバート殿下だった。
「お疲れ様、僕の誇り高き覇王様。……君の剣、本当に最高に格好良かったよ」
殿下の細く白い指先が、ソファに顔を埋める私の髪を、愛おしげに、ゆっくりと梳いていく。
その優しい感触に、私は小さく息を吐き、自ら殿下の肩へと頭をすり寄せた。
コテン、と。互いの肩と肩、肌と肌が触れ合った瞬間。
――トクン。
感覚共有のパスが、今はただ、互いの魂の最も深い部分を静かに繋ぎ合わせていた。
……殿下。
目を閉じると、私の脳裏に、自分のものではない記憶の欠片が流れ込んできた。
冷え切った王宮の離宮。
咳き込む美しい女性の背中。
それを無力な子供の姿で見つめるしかない、幼い日の殿下の孤独。
第一王子派から受けた理不尽な冷遇と、お母様を奪われた深い絶望。
彼がなぜ他者を信じず、あのように性格が歪んでなってしまったのか。
その痛みが、私の胸を締め付けるように伝わってくる。
同時に、殿下の中にも、私の記憶が流れ込んでいた。
泥だらけになって木剣を振るう少女。
それを厳しくも優しく見守る、誇り高き騎士のお父様。
そして、そのお父様が謂れのない罪を着せられ、すべてを奪われていく理不尽な喪失感。
「……そうか。君も、ずっと一人で泣いていたんだな」
殿下が、震えるような声で呟いた。
言葉で語り合う必要はなかった。
互いの心の一番奥底にある傷跡を舐め合うように、二人の魂は深く、温かく共鳴し、混ざり合っていく。
「……泣いてなんかいません。私は騎士の娘ですから」
私は、殿下のドレスの肩口に顔を埋めながら、強がるように言った。
「でも……今日、お父様から教わった剣が、殿下を守るために役に立って……本当に、良かったです。私の信じた正義は、間違っていなかった」
私が誇れるのは、お父様から教わった剣の型だけだ。
でも、その剣が今日、殿下を守る盾になれたのなら、これほど嬉しいことはない。
「ああ、間違っていない。君の正義が、僕を救ってくれた」
殿下は、私の腰に腕を回し、その体を強く抱き寄せた。
互いの体温が、衣服越しにじわりと伝わってくる。
パスを通じて、私の心から溢れ出す安堵と、彼に対する確かな慕情が、隠しようもなく伝わってしまっていた。
「……ふふっ」
「……何がおかしいんですか」
殿下が喉の奥で喉を鳴らして笑うと、私はむっとして顔を上げた。
「いや? 口では生意気なことを言いながら、君の魂が『殿下にあんなに守ってもらえて嬉しい、大好き』と、大声で歌っているのが丸聞こえでね。本当に素直で可愛い共犯者だと思って」
「なっ……! だ、大声でなんて歌ってません! 勝手に脳内を読み取らないでくださいッ!」
私はボンッ!と顔を真っ赤にして抗議したが、視線を泳がせることしかできない。
そんな私の反応が面白いのか、殿下のアメジストの瞳が、妖艶な熱を帯びて細められた。
強大な黒魔術で裏回廊の暗殺者たちを蹂躙した『傾国の悪女』の顔ではない。
ただ、ひどく無防備で優しい表情。
「君の父上から受け継いだ剣、最高に美しかったよ。あの豚がへたり込んだ時の顔といったら……思い出すだけで最高の酒の肴になる。君は完璧に、僕の覇王としてあの場を支配していた」
そう言って、殿下は意地悪な笑みを浮かべ、指先を私の首筋から鎖骨へと、艶かしく滑らせた。
ドレスの深いスリットから覗く白磁の太ももが、私の足に意図的に擦り付けられる。
「さて。大仕事を完璧に成し遂げた僕の可愛い共犯者には、とびきりの『ご褒美』を与えてやらなくてはいけないな」
「へ……?」
「このまま朝まで、僕の持てるすべての技術と魔術を使って、君のその体を甘く、ドロドロに溶かしてあげようか。……狩猟祭の時のように、頭の中が真っ白になるほどの快楽を」
殿下の赤い唇が、私の耳たぶを甘く食む。
感覚共有のパスを通じて直接脳髄を撫で回されるような色香に、私は「ひゃうッ」と情けない声を上げて身をよじった。
「で、殿下! や、やめてください、もう今日は疲労困憊で、そ、そんな激しいことをされたら本当に死んでしまいますッ! だいたい、その真紅のドレス姿で迫られると、私の体が私じゃないみたいで、脳が完全にバグるというか……っ!」
顔を真っ赤にして必死に抗議する私。
だが、殿下は「ふふっ」と嗜虐的な笑い声を漏らし、さらに身を乗り出して私をソファに押し倒そうとする。
……ああもう、この人は本当に、ムードというものをサディズムでしか表現できないんですから!
私は、真っ赤な顔のまま、ぐるぐると回る頭で一つの反撃を思いついた。
今は、私が『王子』で、彼が『メイド』なのだ。ならば、この体を最大限に利用してやる。
「……殿下。いえ、ギルバート」
私は、逃げるのを止め、逆に殿下のドレスの腰にグッと腕を回した。
そして、端正な王子の顔に、今までで一番凛々しく、そしてどこまでも真剣な眼差しを浮かべた。
「なんだい……?」
「王子たる私から、貴女に絶対の命令を下します」
殿下は虚を突かれて瞬きをした。
私は、殿下の白い頬にそっと手を添え、至近距離でその紫水晶の瞳を見つめ返す。
「今夜は、意地悪も、魔術によるご褒美も禁止です。……ただ、このまま私を抱きしめて、一緒に眠ってください。私の側にいて、体温を感じさせてくれること。……それが、私の一番欲しい『ご褒美』です」
それは、権力による命令などではない。
ただの侍女である少女が、王子に向けて放った、不器用で、けれど世界で一番純粋な『我が儘』だった。
「…………ッ」
殿下の瞳孔が、大きく見開かれた。
「……本当に、君は」
殿下の顔から、余裕ぶったサディスティックな笑みが完全に崩れ落ちた。
代わりに浮かび上がったのは、泣き出しそうに歪んだ表情。
「ずるい女だ。そんな顔で、そんな声で命令されたら……逆らえるわけがないだろう」
殿下は、大きく息を吸い込むと、真紅のドレス姿のまま、私の胸の中に崩れ落ちるように倒れ込んだ。
そして、漆黒の夜会服に身を包んだ私の背中に両腕を回し、これ以上ないほど力強く、そして壊れ物を扱うように優しく、その体を抱きしめた。
「……殿下、苦しいです」
「黙れ。君が抱きしめろと命令したんだろう。……ああ、くそ。可愛すぎる。君の魂ごと、僕の中に閉じ込めてしまいたい」
顔を真っ赤にして、私の肩口に顔を埋める殿下。
私は、文句を言いながらも、その腕の力強さと、感覚共有を通じて伝わってくる彼の大洪水のような愛情に包まれ、ふっと幸せな笑みをこぼした。
ドレスの擦れる音と、重なり合う二つの心音だけが、月明かりの部屋に響く。
血に塗れた陰謀の夜を越え、氷の覇王と傾国の悪女は、ようやく互いの魂の形を完全に認め合い、ただ静かで甘い、二人だけの微睡みの中へと溶けていくのだった。




