第28話 氷の覇王のイデオロギー。毒杯と誇り高き拒絶
大広間『太陽の間』は、水を打ったような、息をすることすら許されない極限の静寂に支配されていた。
数百人の貴族たちが見守る中、私の目の前で、第一王子ヴォルフガング殿下が銀のトレイを突き出している。
そこに乗る一つのクリスタルグラスには、豪奢なシャンデリアの光を妖しく反射する赤ワインが注がれていた。
「受け取れッ! 兄からの祝杯だ、喉が渇いただろう!」
ヴォルフガング殿下の血走った眼球が、異様な興奮と苛立ちに震えている。
いやいや、この緊張感MAXの状況で喉なんて渇いてるわけないじゃないですか!
それに、グラスのワインから目に見えない紫色のオーラがフワフワ浮いて見えますよ!
この一杯を飲ませさえすれば、目の前の目障りな第三王子は血を吐いて死ぬ。
仮に拒否すれば、「次期国王たる兄の厚意を無下にした不敬罪」として、背後に控える近衛兵たちに即座に斬り捨てさせる。
言葉の刃で完膚なきまでに論破された狂王が選んだのは、なりふり構わぬ物理的な暴力と権力による、理不尽極まりない強硬手段だ。
でも、私は逃げません。
ここで尻尾を巻いたら、お父様の娘として、そして裏で戦ってくれている殿下の相棒として失格ですからね!
私は、表情筋を絶対零度に凍結させたまま、スッと右手を伸ばした。
「……ありがとうございます、兄上」
そして、ヴォルフガング殿下の手から、毒入りのグラスを静かに受け取った。
その瞬間、ヴォルフガング殿下の顔に、醜悪で勝ち誇ったような獰猛な笑みが浮かんだ。
「さあ、飲み干すがいい。お前の『輝かしい未来』に乾杯だ」
輝かしい未来ですか……。
彼が煽るように自身のグラスを掲げる。
だが、私はグラスを口元へ運ぼうとはしなかった。
細いステムを指先で優雅に弄びながら、アイスブルーの瞳でヴォルフガング殿下を真っ直ぐに見据える。
「……兄上。一つ、お伺いしてもよろしいですか。ただの、純粋な疑問なのです」
氷のように澄み切った、静かでよく通る声。
我ながら、まるで罪人を尋問する裁判官のような、絶対的な威厳が出せたと思う。
「そこまでして……他者を蹴落とし、無実の者に罪を着せ、暗殺者を放ち、毒を盛ってまで、王になってどうしたいのですか?」
私のお父様の命と誇りを奪ってまで、貴方が手に入れたかったものとは、一体何なのですか……。
「……ハッ」
ヴォルフガング殿下は一瞬の虚を突かれた後、広間中に響き渡るような大笑いを発した。
「ハハハハハハッ! 決まっているだろう。男として、この国の頂点を目指すのは当然のことだ! より多くの富、より強大な権力、すべてを己の足元に平伏させる圧倒的な支配!」
彼は拳を握りしめ、獰猛な牙を剥き出しにして嗤った。
「弱者は強者に踏みにじられるために存在する。力を持たぬ正義など、ただの負け犬の遠吠えだ! 俺はどんな手を使ってでも玉座を奪い、俺に逆らうすべての者を恐怖で支配してやる。それが、この弱肉強食の世界の真理であり、王たる者の『力』だ!!」
広間に集まった第一王子派の者たちは、その露骨すぎる暴君の宣言に、暴力のカリスマに酔いしれたように下劣な笑みを浮かべている。
だが、私の心は、微塵も揺るがなかった。
私の脳裏に浮かんでいたのは、幼い頃、お父様に手を引かれて歩いた王都の街並みだった。
『いいかい、リリア。剣とは、誰かを傷つけるためのものではない。自分より弱い者を守り、理不尽な悪から大切なものを護るために振るうものだ。それが、我がヴァレリウス家に代々伝わる、騎士の矜持というものだよ』
優しく、大きく、温かかったお父様の手。
あの時お父様が語った正義は、決して負け犬の遠吠えなんかじゃない。
こんな底の浅い、滑稽な男の陰謀で、お父様は……。
「……ふふふ、愚かですね、兄上」
私の唇から、心底からの憐憫と、冷酷な嘲笑がこぼれ落ちた。
「……何がおかしい」
「いえ。あまりにも……矮小で、滑稽でしたので」
私は、手にしていた毒入りのグラスを、近くのテーブルに静かに、コトリと置いた。
「頂点を目指す。強者が弱者を踏みにじる。……兄上、それは『王の覇道』などではありません。ただ己の欲求を満たすためだけに他者を喰らう、知性なき『獣の道』です」
言葉という、目には見えない私の剣。
「貴方が踏みにじった『力なき者』の中には、国を思い、民を思い、気高く生きようとした騎士たちがいた。……真の王とは、力で他者を支配する者のことではない。自らの身を挺してでも、守るべき者のために剣を振るう者のことです!」
私の言葉は、大広間の隅々にまで凛と響き渡った。
これは、第三王子の姿を借りた、一人の騎士の娘による『正義の証明』だ。
「私の信じる正義は、決して折れない。そして、国を、民を、背中を預けるに足る真の王は……貴方のような獣ではない!」
お父様、見ていてください。
これが、私が選んだ、私と殿下の『王道』です!
――ピキ、ピキピキッ。
ヴォルフガング殿下の巨体が、怒りで限界を超え、小刻みに震え始めた。
顔の血管が何本も浮き上がり、白眼が真っ赤に充血する。
「き、貴様ァァァッ……! 俺を、次期国王たる俺を、ただの獣呼ばわりしたなッ!!」
沸点が低すぎます! 王の威厳が完全にマイナスに振り切れました!
もはや体裁も何もない。
彼は銀のトレイを蹴り飛ばし、自らの腰に提げた長剣の柄に手をかけた。
「言わせておけば、青二才が! ならばその獣の牙で、貴様の喉笛を今ここで食い千切ってやる!! 近衛、構わん! この不敬なる反逆者を斬り捨てろッ!!」
第一王子派の近衛騎士たちが、一斉に剣を抜き放ち、私を取り囲もうと動く。
私はただ、悠然と微笑む。
『――よく言った。最高に格好良いぞ、僕の覇王様』
耳元のピアスから、ギルバート殿下の甘く、酷薄で、深い愛情に満ちた声が響き渡った。
魂のパスを通じて流れ込んでくる、彼からの絶対的な肯定。
「(……あとは、殿下にお任せします)」
『ああ。君の信念に、極上の華を添えてやる』
――ドゴォォォォォォォォォォォンッ!!!
次の瞬間。
大広間の堅牢な大扉が、超極大魔法でも撃ち込まれたかのような凄まじい爆発音と共に、木端微塵に吹き飛んだ。
「な、なんだ!?」
「ひぃッ!?」
吹き荒れる爆風と土煙。
全員が扉の方へと視線を向ける。
煙が晴れていく中で、大広間の入り口に現れたのは、一人の女のシルエットだった。
「……お待たせいたしました。僕の愛しい覇王様」
透き通るような、それでいて広間の空気を氷点下まで凍てつかせる魔性の声。
そこに立っていたのは、真紅のドレスを纏った傾国の愛人メイド――ギルバート殿下だった。
乱れた黒髪。
破れたドレスの深いスリットから露わになった白磁の太もも。
そして、白く美しい頬に、一筋の赤い血糊をつけたその姿は、凄惨でありながらも、直視すれば理性を焼かれるほどに妖艶だった。
ちょっ……!
殿下、ドレスのスリットがさらに破れて、私の美脚が太ももの付け根まで見えちゃってますよ!? 絶対わざとですよね!?
だが、広間の貴族たちが真に息を呑み、恐怖に顔を引き攣らせたのは、彼女の『両手』に握られているものだった。
右手には、光のオーラを纏う白銀の聖剣。
そして左手からは、漆黒の魔力で編まれた太いロープ。
その後ろには、白目を剥いて泡を吹き、完全に精神を崩壊させた数十名もの暗殺者たちが、ズルズルと数珠繋ぎに引きずられている。
暗殺者たちが全員、完全にイってしまったアヘ顔で白目剥いてます!
殿下、裏回廊で一体どんな恐ろしい魔法をぶっ放したんですか!
「さて、第一王子殿下。極上の断罪劇を、始めましょうか」
傾国の悪女が、狂王に向かって、ぞっとするほど美しい死神の微笑みを浮かべた。
……ああ、やっぱり。
私は、呆れと、それを遥かに凌駕する熱情をもって、その美しい姿を見つめる。
このドSで、変態で、残酷な私の悪魔。
――私は、この人のことが、どうしようもなく好きだ。




