第26話 毒牙とイデオロギー。氷の覇王と狂王の対峙
大広間『太陽の間』を熱狂の渦に巻き込んだワルツの余韻が、オーケストラの静かな間奏曲へと溶け込んでいく。
令嬢たちから向けられる羨望と熱情の眼差しを、冷徹な視線で受け流していた私の前に、人波がまるで巨大な猛獣を恐れるように、左右に割れていった。
「よう、我が弟よ。素晴らしいダンスだったぞ。狩猟祭での『奇跡的な』生還といい、兄として誇らしく思う」
白々しくも、腹の底に重く響くようなバリトンボイス。
取り巻きの貴族たちを引き連れ、大広間の中央に歩み出てきたのは、第一王子ヴォルフガング殿下だった。
筋骨隆々の巨体が放つ、血と鉄、そして傲慢な権力の匂い。
どれほど最高級の絹と金糸で仕立てられた礼服を着ていようと、戦場を暴力と恐怖で支配する「狂王」の威圧感は隠しきれていない。
彼が歩みを進めるたびに、シャンデリアの眩い光さえもが暗く沈むような錯覚を覚え、広間の空気は一瞬にして氷点下まで凍りついた。
「……お褒めに預かり、光栄です。兄上」
来ましたね。ここが正念場です!
私は、息一つ乱すことなく、王子の端正な顔に完璧な氷の微笑を張り付けて応じた。
視界の端で、第一王子派の側近が、二つの豪奢なクリスタルグラスを乗せた銀のトレイを恭しく掲げているのが見える。
狩猟祭の勝者に対する、兄からの「祝杯」。
だが、ヴォルフガング殿下はすぐには杯を差し出さなかった。
彼は獰猛な笑みを浮かべ、私の背後――つい先ほどまで、殿下が立っていたはずの空間を舐め回すように見た。
「ところで……先ほどまでお前の腰にすがりついていた、あの下品な雌犬だが。少しばかり身元を調べさせてもらったぞ」
ヴォルフガング殿下の声が、ワザと広間に響き渡るように一段と大きくなった。
周囲の貴族たちが息を呑み、聞き耳を立てる。
「ヴァレリウス家の娘、だそうだな。……王家への忠義を騙りながら、軍資金を横領したあの卑劣な反逆者の血筋。そんな罪人の娘を『専属メイド』として、あまつさえ夜の慰み者として傍に置くとは、いかなる了見だ?」
――ドクンッ。
私の心臓が、肋骨を打ち破らんばかりに激しく跳ねた。
お父様が……反逆者? 卑劣? 罪人……?
父を公衆の面前で侮辱された怒り。
しかし、それ以上に、ヴォルフガング殿下が発した言葉の端々に含まれる『ある確信』が、私の脳髄を雷のように貫いたのだ。
「……反逆者、ですか。横領の罪は、すでに公的な裁きが下ったはずですが」
「ああ、そうだ。本当に哀れな男だったよ」
ヴォルフガング殿下は、私にだけ聞こえるよう、巨体を屈めて耳元に顔を近づけた。
その口から漏れ出たのは、腐臭がするほどの醜悪な、勝者の嘲笑だった。
「正義だの忠誠だの、青臭い理想ばかりを喚き散らし、俺の『 事業』の邪魔をした。……だから、俺が少しばかり帳簿に『細工』をしてやったのだ。あの堅物騎士が、処刑台で無実を叫びながら絶望していく様は、最高の見世物だったぞ?」
ピキッ、と。
私の中で、何かが臨界点を突破して弾け飛ぶ音がした。
お父様を陥れて、濡れ衣を着せたのは……この男だったの!?
ずっと探し求めていた、一族を没落させた憎き黒幕。
私からすべてを奪い、誇り高き父を絶望の中で殺した真の敵は、今、目の前で下劣な笑いを浮かべているこの男だったのだ。
……殺す。
視界が、ドクドクと脈打つ血のような赤に染まっていく。
王族だとか関係ない!
この男だけは、絶対に許さない!
――だが。
「(……堪えろ、リリア。奴の安っぽい挑発に乗るな)」
魂のパスを通じて、ドス黒くも、どこまでも冷たく、そして甘い魔力の波が流れ込んできた。
ギルバート殿下だ。
彼から送られてきたのは、いつものようないやらしい快感ではない。
怒りで暴走しそうになる私の魂を、背中から力強く抱きしめ、頭を撫でてくれるような、深く静かな『絶対零度の鎮静』だった。
「(奴が君の父親を陥れた外道だということは、今、このパスを通じて僕も理解した。……許さない。僕の愛しい半身の過去を嘲笑うなど、万死に値する。だが、今ここで君が手を汚す必要はない。あんなゴミ屑に、君の高潔な騎士の魂をすり減らすな)」
殿下の声には、私に対する深い慈愛と、第一王子に対する底知れぬ残酷な殺意が同居していた。
「(君はただ、あの光の中央で、氷の覇王として気高く立ち続けろ。……僕が、必ずすべてを終わらせてやる)」
その言葉に、私は赤く染まっていた視界をゆっくりと瞬きで払い落とした。
……そうだ。
ここで私がキレてしまえば、殿下が身を呈して守ろうとしてくれているこの完璧な舞台が、すべて水泡に帰す。
私は、深く、静かな呼吸を一つした。
目の前にいるヴォルフガング殿下を見据える。
他者を自分の野望を満たすための使い捨ての駒としか思わず、邪魔になれば平気で無実の罪を着せて踏みにじる男。
一方で、私と魂のパスで繋がっている男はどうだ。
性格はねじ曲がっていて、手段はドSで悪辣で、平気で人を絶頂させて玩具にする最低のド変態魔王だ。
でも、殿下は……決して私の魂の誇りだけは侮辱しなかった。
常に隣に立ち、私を守り、今も裏の暗闇で、一人で血みどろの戦いを繰り広げてくれている。
孤独でありながらも、不器用で歪んだ、しかし誰よりも深い愛情と理解を向けてくれる、最高の共犯者。
ああ……どいつもこいつも腐りきったこの王宮で、ただ一人。
この捻くれた悪魔のような王子こそが、私が生涯を懸けて仕え、愛するに足る真の王なんだ……!
私の胸の中で、殿下への狂おしいほどの愛と、騎士としての絶対的な忠誠心が鋼のように固まった。
「……兄上」
怒号でも悲鳴でもなく、薄氷のように冷たく微笑む。
怒り狂うと予想していた弟が、まったく動じていないことに、ヴォルフガング殿下の眉がピクリと不快げに動く。
「他者を己の欲望を満たすための『使い捨ての駒』としか思わぬ者には、忠義の本当の価値など、一生理解できないでしょうね」
静かな、しかし大広間の隅々にまで響き渡るような透明な声。
「……何?」
「あなたの周りを見てみなさい。力と恐怖、そして浅ましい利権で繋がっただけの、ただの獣の群れだ。いざとなれば、彼らは保身のために真っ先にあなたを裏切るでしょう。だからこそ……狩猟祭であのような、つまらない『小細工』に頼らざるを得ないのですよ」
一歩、私が前に出る。
巨漢のヴォルフガング殿下が、無意識に一歩後ずさった。
「私の傍にいる彼女は、罪人の娘ではありません。気高き騎士の魂を受け継ぎ、私の背中を預けるに足る、唯一無二の『相棒』です。……兄上の矮小な器で、彼女の忠義と愛を推し量ろうなど、片腹痛い」
大広間に、水を打ったような完全な静寂が降りた。
周囲の貴族たちが青ざめ、息を潜める中、私は微塵も怯むことなく、兄を射殺すように見つめ返した。
それは、父から受け継いだ騎士道という名の、決して折れることのない誇りの剣だった。
「き、貴様ァァァッ……!」
ヴォルフガング殿下の顔が、屈辱と怒りでどす黒く染まり、額に青筋が浮かび上がる。
言葉の刃で完全に叩き斬られ、大衆の面前で顔に泥を塗られた彼は、もはや王族としての体面すら投げ捨て、殺意を剥き出しにして側近のトレイに乱暴に手を伸ばした。
「口の減らぬ奴だ! 喉が渇いただろう、兄からの祝杯だ、受け取れッ!」
ガチャンッ、と粗野な音を立てて、猛毒の仕込まれたワイングラスが私の目の前に突き出される。
うわぁ、わかりやすいですね!
飲めば即死、断れば不敬罪で近衛兵召喚。
詰み将棋のつもりでしょうけど……甘すぎますよ。
論理と誇りでの敗北を、物理的な暴力による強引な幕引きで覆そうとする、獣の足掻き。
私は、グラスを受け取ることも、拒否して後退することもしなかった。
ただ、狂王の哀れな姿を見据えたまま、魂の奥底で繋がるたった一人の愛しい主君へ向けて、静かに微笑んだ。
大丈夫です、殿下。
私は逃げません。
私がいま見ている景色は、貴方のものです。
……さあ、貴方の出番ですよ、私の最強の魔法使い様。




