第25話 熱狂の夜会。意地悪な愛人の譲渡と氷の覇王の完璧なるエスコート
大広間『太陽の間』に敷き詰められた大理石の床が、数千の蝋燭を抱くシャンデリアの眩い光を反射して煌めいている。
豪奢なオーケストラの調べが響き渡る中、数百人の貴族たちの視線は、大階段を降り立った二人の男女――漆黒の夜会服に身を包んだ私と、真紅のドレスを纏った愛人メイドのギルバート殿下に完全に縫い付けられていた。
「(……さあ、ここからが本番だ。君はあの光の中央で、馬鹿な貴族どもの目を惹きつけ続けろ。第一王子が放った不快な羽虫どもは、僕が裏からすべて駆除してくる)」
腕を組みながら、殿下が艶やかな唇を私の耳元に寄せて囁く。
その吐息の熱さに、私はポーカーフェイスで、小さく身震いをした。
「(殿下……どうか、ご無事で)」
「(ふっ。リリアもな)」
「(無茶はしないでくださいね)」
「(誰に向かって言っている。……と言いたいところだが、君をこの欲情した獣の群れの中に一人残すのも、少しばかり業腹でね。だから、僕から一つ『極上の余興』をプレゼントしてあげよう)」
殿下のアメジストの瞳が、悪戯を思いついた残酷な子供のように細められた。
殿下は私の腕から優雅に離れると、広間の人波を一瞥し、そして――群衆の後方で、なるべく目立たないように息を潜めていた縦ロールの金髪美女、ベアトリス・ローゼンブルク公爵令嬢を正確に捕捉した。
「皆様。今宵は、我が至高なるギルバート殿下の偉業を祝う、素晴らしき夜」
魔力を帯びた殿下の透き通る声が、広間の喧騒をピタリと止めた。
「殿下の記念すべき初めてのダンスのお相手は、本来、身分不相応なこの私が務めるべきではないのかもしれません。……ですが、公の場において殿下の隣に並び立つにふさわしい、『高貴な血筋』のレディが、あそこにおいでになるではありませんか」
殿下が、真紅の扇子で優雅に指し示した先。
視線の集中砲火を浴びたベアトリス様は、「ひっ!?」と短い悲鳴を上げて肩をビクンと跳ねさせた。
「ベアトリス・フォン・ローゼンブルク公爵令嬢。……どうか、私に代わって、殿下をその『豊満な母性』で包み込んで差し上げてくださいな」
それは、学園での泥沼の修羅場を知る者からすれば、あまりにも残酷で、圧倒的なまでの愛人マウントだった。
完全に心を折った相手に対し、あえて大衆の面前で「踊らせてあげる」という恩着せがましい優位性の誇示。
ベアトリス様は顔面を蒼白にし、ガクガクと膝を震わせた。
断れば公爵家の名折れとなり、受け入れればあの恐ろしいドSメイドの掌の上で踊らされることになる。
「(で、ででで殿下ッ!? なに意地悪してるんですか! ベアトリス様、完全に怯えきってるじゃないですか!)」
「(くくっ、いい気味だ。さあ、リリア。あの巨乳令嬢を、僕が教えたステップで完璧に腰砕けにしてやれ。他の女と踊ってだらしない顔を見せたら、後でたっぷり『お仕置き』だからな)」
ピアス越しに嗜虐的な笑い声を残し、殿下は極上のフェロモンを撒き散らしながら、人波を縫って裏回廊の暗がりへと姿を消していった。
残された私は、一人、広間の中央に取り残された。
数百人の視線が、私と、震えるベアトリス様を交互に見ている。
ひぃぃっ! 最悪の放置プレイです!
でも、ここでモタモタすれば、第三王子の威信に関わります……!
私は、大きく深呼吸を一つすると、背筋を微塵の揺らぎもなくピンと伸ばした。
……落ち着け。落ち着くんです、私。
昨夜の、殿下のステップを思い出すのよ……っ。
ゆっくりと大理石の床を滑るように歩み出る。
そして、恐怖で涙目になっているベアトリス様の前で、流れるような所作で右手を差し出した。
「……今宵のファーストダンス、私にお付き合いいただけますか。レディ」
「あ……っ、は、はい……ッ! よ、喜んで、お受けいたしますわ……っ」
震えるベアトリス様の手を取り、私はダンスの輪の中央へと進み出た。
オーケストラが、優雅でテンポの速いワルツを奏で始める。
私は、そっと令嬢の腰に手を添えた。
その瞬間、私の脳裏に鮮明に蘇ったのは、昨夜の密室での記憶だ。
私を導いてくれた、殿下の少し冷たい指先の感触。
筋肉の微細な収縮。
相手の重心を完全に掌握し、力ではなく、圧倒的な存在感で女を支配する、あの完璧な『男のリード』。
『女を酔わせるには、ただ優しくするだけじゃ駄目だ。逃げられないと分からせるように……強引に、抱きすくめるんだ』
殿下の教えが、筋肉の記憶となって私の体を動かした。
トン、と。
私が一歩踏み出し、ベアトリス様の体を滑らかに、逃げ場のない力強さで引き寄せる。
「あっ……!」
ベアトリス様の口から、甘い吐息が漏れた。
恐怖で強張っていた彼女の体が、私のエスコートによって強制的に解きほぐされていく。
私の視線はベアトリス様を真っ直ぐに射抜き、決して逸らさない。
大きく、華麗なターン。
ドレスの裾が美しい円を描き、シャンデリアの光を弾く。
私のステップは、女性役である令嬢を最高に美しく魅せ、かつ自らの王者の風格を微塵も崩さない、芸術的なまでの完成度を誇っていた。
「……っ、殿下、あぁ……っ」
ベアトリス様の瞳から恐怖が消え、代わりに、抗いがたい熱を帯びた恍惚の色が浮かび上がる。
だが、私の意識の半分は、目の前の令嬢にはなかった。
「(……殿下)」
感覚共有を通じて繋がっている、もう一人の私。
眩い光に包まれた大広間でワルツをターンした瞬間。
私の脳髄に、王宮の裏回廊の冷たく、生臭い空気が流れ込んできた。
――グシャァッ!!
鈍い破砕音。
同時に、私の頬に、生温かい血飛沫が飛び散る感触がリアルに伝わってきた。
「(ッ……!)」
表の舞台で光を浴びて踊る私。
裏の暗闇で、真紅のドレスを血に染めながら、第一王子派の暗殺者たちの喉元をヒールで踏み砕き、凶悪な黒魔術で命を刈り取っていく殿下。
極上のワルツの旋律と、血みどろの殺戮の交響曲。
光と闇の全く異なる二つの世界が、感覚共有のパスを通じて私の脳内で一つに混ざり合う。
その背筋が凍るような、けれど魂が打ち震えるほどの恐ろしい共鳴に、私の無意識下で王子の体が微かに身震いをした。
そして、その微かな震えが、ベアトリス様の腰を抱く手に情熱的な力強さとして伝わってしまう。
「ひゃうッ……! で、殿下、そんなに強く抱き寄せられたら、私……っ」
ベアトリス様は完全に腰を砕かれ、私の胸にすがりつくようにして熱い吐息を漏らした。
曲の終わり。
私は完璧なタイミングでベアトリス様を背中を反らせるポーズで抱き留め、その顔を至近距離で覗き込んだ。
「……素晴らしいステップでしたよ、レディ。貴女はまるで、春の風のように軽やかでした」
「あ、あぁぁぁ……ッ!! ギルバート、殿下ぁぁっ……!」
ベアトリス様は感極まり、完全に白目を剥きかけて気絶寸前になっていた。
ワァァァァァァァッ!!!
割れんばかりの、そして鼓膜が破れんばかりの令嬢たちの黄色い悲鳴と、貴族たちの万雷の拍手が大広間を揺るがした。
次から次へと「私とも踊ってくださいませ!」「いいえ、次は私と!」と令嬢たちが殺到し、大広間は完全に第三王子の独壇場にして、熱狂の渦と化していた。
――完璧な、『目眩まし』の成功。
私は次々と令嬢たちの手を取り、涼しい顔でステップを踏み続けながらも、視線を広間の入り口へと向けた。
……来ます。
第一王子の、本命が。
人波を強引にかき分け、苛立ちを隠そうともせずにこちらへ向かってくる巨漢。
第一王子ヴォルフガング殿下と、その背後に控える側近たちが、ついに光の中央で踊る私の元へと到達しようとしていた。




