第23話 戦場への身支度。紅のドレスと交わされた騎士の誓約
王宮の北の塔、最上階。
分厚い防音の魔法陣が刻まれた『開かずの間』には、夜会特有の華やぎと、ボスの部屋の扉を開ける直前のような、研ぎ澄まされた刃のような緊張感が同居していた。
巨大な姿見の前に立ち、私、リリアは、王族の正装である漆黒のイブニングコートに袖を通していた。
豪奢な金糸の刺繍が施された詰め襟に、王家の紋章をあしらったサッシュ。
……私、本当にこれを着て、あの大広間に出るんですね。
私は、冷たい汗が背中を伝うのを感じながら、震える指先で首元のクラバットを整えた。
騎士爵家の娘だった自分が、王位継承権を持つ王子の姿で、国中の高位貴族が集まる戦勝祝賀舞踏会の主役となる。
そのプレッシャーは、巨大なキメラと対峙するよりも遥かに私の胃の体力をゴリゴリと削り取っていた。
「どうした、僕の覇王様。手が止まっているぞ」
その時、部屋の奥の豪奢な衝立の向こうから、衣擦れの音と共に声が響いた。
鼓膜を直接撫でるような、甘く、酷薄で、どこまでも艶やかな声。
「で、殿下……着替えは終わられたのですか? その、今日は公式な夜会ですから、できれば目立たない落ち着いた色合いで……」
私が振り返りかけた、その言葉の途中で。
衝立の陰から姿を現した『それ』を見て、私の思考回路は完全にフリーズした。
「――目立たない? 冗談だろう。今夜の僕は、君の隣に並び立つ『最高の愛人』として赴くんだ。これくらいは着飾らなければ、第一王子の鼻を明かせないじゃないか」
そこに立っていたのは、深紅の――まるで流れ出る鮮血をそのまま絹の布地に仕立て上げたような、扇情極まりないイブニングドレスを身に纏ったギルバート殿下(体は私)だった。
背中は腰の極限まで大胆に開き、肩紐を持たないビスチェタイプの胸元は、私の本来の豊かな双丘をこれでもかと暴力的に押し上げている。
さらに、歩を進めるたびに、腰骨の高さまで入った深いスリットから、白磁のように滑らかな太ももが惜しげもなく露わになった。
認識阻害の伊達眼鏡はとうに外され、漆黒の髪は複雑に編み込まれてうなじを強調している。
ただ立っているだけで、致死量のフェロモンと圧倒的な魔性の色香が部屋を満たし、呼吸をするのさえ苦しくなるほどの美暴力だった。
「な、ななななっ……!?ででで、殿下ぁぁぁッ!! なんて破廉恥な格好をしてるんですか!」
背中も、胸も、足も、全部出てるじゃないですか!
私の純潔な体が、完全に夜の蝶みたいに……ッ!!
私は顔面を沸騰させたように真っ赤に染め、両手でバッと王子の顔を覆った。
「ふふっ。何を恥ずかしがることがある。君の体は、隅々まで完璧に美しいと僕が証明してやっているんだぞ?」
殿下は楽しげにクスクスと笑いながら、カツ、カツ、とヒールを鳴らして私に近づいた。
そして、顔を覆っている私の手首を細い指先で掴み、強引に引き剥がす。
「よく見ろ、リリア。これが今夜、君の隣を歩く女だ。……どうだ? 欲情したか?」
至近距離で覗き込んでくる、アメジストの瞳。
その悪戯っぽくも挑発的な視線と、鼻腔をくすぐるむせ返るような甘い香りに、私の心臓が警鐘のように早鐘を打つ。
「よ、欲情なんてしませんッ! だいたい、そんな格好で大広間に出たら、第一王子派どころか、すべての貴族の雄どもが、殿下をいやらしい目で見回すじゃないですか……っ!」
そこまで言って、私はハッとして口を噤んだ。
他の有象無象のモブ貴族たちが、この扇情的な姿を舐め回すように見る。
そう想像した瞬間。
私の胸の奥で、恥ずかしさとは全く別の、どす黒くて重たい『苛立ち』のような感情がチリッと焼けたのだ。
あれ? なんで私、こんなにイライラしてるんでしょう。自分の体をジロジロ見られるのが嫌?
……違う。
殿下に欲情の目を向けるのが……猛烈に、腹が立つ!
「……ほう?」
殿下は、目を細めて妖艶に唇を舐めた。
「いい嫉妬だ。だが安心しろ、リリア。他の有象無象がどれだけ僕を欲情の目で見ようと、僕が触れることを許すのは、世界でただ一人……君の魂だけだ」
殿下の細い指が、私の頬をそっと撫でる。
「それに、このドレスの露出の多さは、いざという時に暗殺者の目を逸らし、僕の黒魔術の触媒を即座に展開するための戦術的偽装でもある」
殿下の声から、先ほどまでのからかうような響きが消えた。
スッと、部屋の空気が数度下がったかのような、冷厳な王の気配。
「いいか、リリア。今夜の舞踏会は、ただの酒盛りじゃない。第一王子ヴォルフガングが仕掛けてくる、狩猟祭の延長戦だ」
殿下は、私の胸元――夜会服のクラバットにそっと手を添え、その顔を真剣なものへと引き締めた。
「奴らは必ず、大勢の貴族の目がある中で、君の命を、あるいは尊厳を確実に奪いに来る。毒か、凶刃か、それとも卑劣な政治的罠か……。君は、無数の悪意が渦巻くあの『戦場』のド真ん中で、氷の覇王として立ち続ける覚悟があるか?」
命を懸けた、最終確認。
私の心から、羞恥の揺らぎが完全に消え去った。
「……愚問です、殿下」
私は、胸元に添えられていた殿下の白い手を、自らの両手でそっと包み込むように取った。
不思議なほど、心は静まり返っている。
ああ、私、もう迷わない。
この底知れぬ孤独を抱えた、悪魔みたいに不器用な人を……私が、絶対に守るんだ。
漆黒の礼服に身を包んだ私は、深紅のドレスを纏った殿下の前で、静かに、そして流れるような動作で片膝をついた。
「リリア……?」
驚きに見開かれた殿下のアメジストの瞳を見上げながら、私は、かつて父から教わった、最も敬意と忠誠を込めた『騎士の礼儀作法』を体現した。
包み込んだ殿下の白い手の甲に、己の額を、そして唇を、恭しく押し当てる。
「私が、殿下の前で剣を引くことなどあり得ません。……貴方が私の身を案じてくれるように、私もまた、貴方のこの体を、そして貴方の気高き魂を、何があっても守り抜くと決めたのです」
誓いの口付け。
それは、純粋な、互いの魂の尊厳を懸けた、ただ一つの契約の儀式だった。
「第一王子が何を仕掛けてこようと、すべて私が正面から叩き斬ってみせます。……だから殿下は、どうか私の背中を、貴方のその強大な魔術で支えてください」
殿下は、キスを落とされた自分の手をそっと引き抜き、代わりに両手で私(王子の顔)の頬を柔らかく包み込んだ。
「……反則だぞ、リリア。そんな顔を見せられたら、今夜の夜会などすべて消し飛ばして、この部屋で君を朝まで閉じ込めておきたくなる」
言葉とは裏腹に、殿下の瞳には、かつてないほどの優しく、力強い光が宿っていた。
私の想いが、パスを通じて彼にも完全に伝わっているのがわかる。
「分かった。君のその誓い、確かに僕の魂で受け取った。……ならば僕も誓おう。君に牙を剥くすべての敵に、等しく極上の絶望を与えてやる」
殿下は、私を立たせると、互いの額をコツンと合わせた。
魔法のパスを通さずとも、二人の心臓の鼓動が、同じリズムで重なり合って響いている。
「生きて、必ずこの『開かずの間』に二人で帰ってくるぞ」
「はい。……行きましょう、殿下」
互いの体温を刻み込むように、二人は深く頷き合った。
どんな罠が待っていようと、もう怖くない。
私には、この人がついている。
最も信頼できる互いの背中を預け合い、私たちは決戦の地である太陽の大広間へと、静かに歩みを進めた。




