第22話 狂王の謀略。狩猟祭の爪痕と亡霊の娘
【視点:ヴォルフガング】
ガシャンッ!!
王宮の奥深く、第一王子専用の執務室。
分厚いペルシャ絨毯が敷かれた重厚な空間に、壁に叩きつけられた最高級のクリスタルグラスが砕け散る甲高い音が響き渡った。
壁を伝い落ちる赤ワインは、まるで俺が流させるはずだった敵の血のようだ。
「……あり得ん。あの青白い顔をした虚弱な引きこもりが、深層の魔獣を単独で討ち取っただと? ふざけるなッ!!」
俺は、血走った目で巨大なマホガニーの執務机を殴りつけた。
ミシッ、と分厚い無垢材が悲鳴を上げる。
あの貧弱なネズミめ……!
俺が直々に手を回した完璧な暗殺計画だぞ!?
息のかかった護衛を潜り込ませ、分断し、隔離結界の中で狂化させたシャドウ・グリズリーをけしかける。
万が一それに生き残ったとしても、深層には極秘裏に合成した規格外の暗殺用魔獣を配置していたのだ。
魔法すらまともに使えない、あの軟弱な第三王子が生き残る確率など、万に一つもなかったはずだった。
それなのに。
報告書によれば、キメラは倒され、ギルバートは生還した。
あまつさえ、野営地では大勢の貴族たちの前で、自分を言葉で圧倒し、完膚なきまでに俺の面子を潰したのだ。
「……殿下。お怒りはごもっともですが、どうかお鎮めください」
部屋の暗がりから、俺の直属の暗部の男が、音もなく歩み出た。
「狩猟祭での第三王子の不自然な力の底上げ……そして、キメラを焼き尽くした未知の黒炎。その原因は、十中八九、殿下の後ろに控えていた『あの女』にあるかと推測されます」
「……あの、雌犬か」
俺の脳裏に、野営地で見た忌々しい光景がフラッシュバックする。
破れたメイド服のスリットから覗く白い肌。
乱れた黒髪。
そして、息をするだけで男の理性を狂わせる、あのむせ返るような異常な色香。
……だが、何よりも気に食わんのはあの『目』だ。
戦場を支配するこの俺の殺気を前にしても微塵も怯まず、それどころかゴミを見るような目で冷酷に見下してきたあのアメジストの瞳。
ただの下働きの女が、次期国王たるこの俺に、あんな得体の知れないプレッシャーを放つなど、絶対に許されることではない。
「報告によれば、そのメイドは単なる愛人ではなく、恐るべき膂力と魔術の使い手だとか。ギデオンの馬鹿が、中庭でその女の平手打ち一発で噴水まで吹き飛ばされたと聞いて、耳を疑ったぞ」
「は、はい……。その女がギルバート殿下の傍にいる限り、物理的な暗殺は極めて困難かと……」
「それで? その化け物のような雌犬の正体は、割れたのか?」
「はっ。……それが、少々厄介な経歴の娘でして」
影の男が、一葉の羊皮紙を俺の机の上に差し出した。
そこには、王宮の下働きとして登録されている一人の侍女の経歴が記されている。
「名前は、リリア。……没落した騎士爵、ヴァレリウス家の長女です」
その名を聞いた瞬間。
俺の動きが、ピタリと止まった。
「……ヴァレリウス、だと?」
ヴァレリウス。……ヴァレリウスだと!?
低い、地鳴りのような声が俺の喉から漏れる。
顔から怒りがスッと消え、代わりに、ひどく歪で、邪悪な笑みが唇の端に張り付いた。
「ハッ……ハハハハハハッ!! なるほど、そういうことか! あの不愉快なまでの真っ直ぐな瞳、どこかで見たことがあると思えば……!」
俺の脳裏に、一人の男の顔が蘇る。
かつて国王からの信頼も厚く、王宮騎士団の中で「清廉潔白」を絵に描いたような堅物だった男。
第一王子である俺が、軍部を掌握し、裏で非合法な魔獣研究や暗殺部隊の育成を進めようとした際、真っ向から立ちはだかり、正義と忠義を説いて俺の計画を幾度も邪魔した、最高に目障りな騎士。
『――王道とは、覇道にあらず。弱きを虐げ、血で染めた玉座に、真の安寧など訪れません』
吐き気がする。
力を持たぬ者の負け犬の遠吠えだ。
……だから俺は、あいつを完膚なきまでに叩き潰してやった。
巧妙な罠を仕掛け、存在しない「軍資金の横領」の濡れ衣を着せ、王宮から追放してやった。
無実を訴えながら絶望に染まるあの騎士の顔を思い出すだけで、俺は今でも極上の酒が飲めるほどだ。
「親の次は、その娘が俺の前に立ちはだかるというのか。あの雌犬が……ヴァレリウスの血筋だと……!」
ギリッ、と俺の奥歯が鳴った。
ただの生意気な愛人ならば、適当に嬲り殺して終わる話だった。
だが、あの目障りな騎士の血を引く娘が、再び俺と玉座の間に立ち塞がり、あまつさえギルバートという政敵を庇護している。
「なるほどな。あの惨めな没落騎士の娘が、父親の復讐のために第三王子に近付き、股を開いて愛人に成り上がったというわけか。……笑わせる」
俺は、報告書を握り潰し、忌々しげに舌打ちをした。
忠義だの正義だの、虫酸が走る。
結局は権力と力にすがりつくくせに、綺麗事で身を飾るあの血筋の匂いが、俺は心底気に食わん。
「……あの血筋は、親父共々、根絶やしにしなければならない運命にあるらしいな」
俺にとって、人間とは己の野望を満たすための『駒』でしかない。
権力に群がる者、恐怖で従う者。
それ以外の、自らの信念のために俺の覇道に牙を剥く者は、徹底的に蹂躙して排除する。
それが狂王ヴォルフガングの絶対的な哲学だ。
「殿下、いかがなさいますか。明日の夜には、戦勝祝賀の舞踏会が控えておりますが……」
「決まっているだろう。あの夜会こそが、奴らの墓場だ」
俺は立ち上がり、執務室の奥にある隠し金庫を開けた。
厳重な魔法の鍵を解除し、中から取り出したのは、一本の美しい細工が施された小瓶。
中には、無色透明の液体が揺らめいている。
「無味無臭。そして、体内に巡ってから数時間後に心臓の血管を内側から破裂させる、大陸最高峰の遅効性の猛毒だ」
「殿下、それは……明日の夜会で、お使いになられるので?」
「当然だ」
俺は小瓶を陽の光にかざし、残酷に目を細めた。
「明日は、王家が主催する『戦勝祝賀舞踏会』。王立狩猟祭の勝者であるあの引きこもりを、大勢の貴族の前で褒め称えるという、吐き気のする宴だ。……だが、だからこそ隙がある。兄からの『祝杯』を、大勢の目がある中で断れるはずがない」
毒を飲ませ、そのまま舞踏会を続けさせる。
そして夜会の最中、ギルバートは突如として血を吐き、無様に床をのたうち回って死ぬのだ。
その横で、愛人であるヴァレリウスの娘が、己の無力さに絶望して泣き叫ぶ姿。
最高だ。
ギルバートが血を吐いて倒れれば、あの生意気な愛人メイドも道連れだ。
主殺しの罪を被せて、大広間のど真ん中でその美しい首を刎ねてやる。
……ヴァレリウスの亡霊ごと、な。
想像するだけで、俺の背筋が歓喜で粟立った。
「影よ」
「はっ」
「お前たち暗殺部隊の精鋭二十名を、明日の夜会、大広間の裏回廊と天井裏に配置しろ。……万が一、毒を飲むのを拒んだ場合、あるいはあの雌犬が何らかの魔術で妨害してきた場合。大広間を血の海にしてでも、奴らの首を獲れ」
「御意に」
影の男が深く頭を下げ、闇の中に溶けるように消えていく。
一人残された執務室で、俺は壁に飛び散ったワインの染みを、うっとりと見つめた。
「待っているがいい、ギルバート。そして、ヴァレリウスの小娘よ」
俺は空のグラスを握りつぶし、破片で切れた掌の血を舐めとった。
「お前たちのつまらない正義と忠義ごと……明日の夜、この俺が完全にすり潰してやる」




