第16話 メイド姿の死神、推参
シャドウ・グリズリーの巨体が地響きを立てて崩れ落ちた後、鬱蒼とした『魔の森』に、不気味なほどの静寂が舞い降りた。
「はぁ……はぁ……っ、終わっ、た……?」
私、リリアは、泥と獣の血に塗れた長剣を杖代わりにして、その場にガクリと膝をついた。
腕が……鉛みたいに重いです。
王子のひ弱な体力体力も精神力も、完全にゼロ……いえ、マイナスに振り切れてます。
魔導下着による強制的な絶頂の余韻と、極度の筋肉疲労が絡み合い、指先一つ動かすのにも激痛が走った。
全身が汗でぐっしょりと濡れそぼっている。
だが、生き残った。
第一王子派が仕掛けた凶悪な罠を、魔術なしの純粋な剣術だけで打ち破ったのだ。
「……やりましたよ、お父様」
薄く笑みを浮かべ、乱れた呼吸を整えようとした、その時だった。
――ズズッ……、ズズズズズズッ……!!
地面が、波打つように揺れた。
いや、地面だけではない。
森の木々が、空気が、空間そのものが、圧倒的な恐怖の質量に軋みを上げている。
えっ……?
待って、嘘でしょ?
私が顔を上げた先。
グリズリーの死体の奥、さらに深い森の闇の中から、漆黒の瘴気を纏った『巨大な異形』が這い出してきた。
「な、に、あれ……」
それは、複数の魔獣を強制的に合成させたようなおぞましいキメラだった。
獅子の巨体に、毒蛇の尾。
背中には蝙蝠のような巨大な翼が生え、三つの首からはそれぞれ違った属性の魔力光が漏れ出している。
『ギ、ギィィィィィィィッ!!』
三つの首が同時に咆哮を上げた。
鼓膜が破れそうな音波と共に、薙ぎ払われた周囲の巨木がマッチ棒のように宙を舞う。
あ、だめ……。
これ、絶対に勝てないやつです。
心が、ついにポキリと音を立てて折れた。
立ち上がろうと足に力を入れるが、膝が笑って言うことを聞かない。
長剣を持ち上げる筋力も、逃げ出す体力も、もう一ミリも残されていなかった。
回復ポーションなんて当然持っていない。
キメラが、私を「餌」と認識し、巨大な顎を開いて跳躍する。
絶望的な影が、私の華奢な体をすっぽりと覆い隠した。
……殿下、ごめんなさい。
貴方の体、守りきれませんでした。
ギュッと目を閉じ、死の衝撃に備えた、まさにその刹那。
――ドォォォォォォォォォォォォォンッ!!!
隕石でも墜落したかのような、凄まじい轟音。
しかし、私の体に痛みは走らなかった。
代わりに、顔を撫でたのは生温かい突風と、どこか覚えのある、甘い香り。
「え……?」
恐る恐る目を開けた私の視界に飛び込んできたのは、信じがたい光景だった。
つい数秒前まで自分を食い殺そうとしていた体長十メートルを超えるキメラが、まるで紙屑のように遥か後方へ吹き飛ばされ、太い大樹に激突して白目を剥いていたのだ。
そして。
私の目の前には、キメラを蹴り飛ばしたままの姿勢で、右脚を高く振り上げた一人の『少女』が立っていた。
「はぁっ……はぁっ……間に、合った……か」
黒色の髪を靡かせ、荒い息を吐くその後ろ姿。
彼女――ギルバート殿下(中身は王子)は、私の肉体を使い、メイド服のスリットから白く滑らかな太ももを露わにして、圧倒的な暴力の余韻を漂わせていた。
えっ!? あの後ろ姿……私!?
でも、なんで私の体があんなにエッチなオーラを出してるんですか!?
伊達眼鏡はどこかで外してきたのか、振り返ったその横顔は息を呑むほどに妖艶で美しい。
森の暗がりでさえ隠しきれない、むせ返るようなフェロモンと、桁外れの魔力が全身から立ち上っている。
それはまさに、男を、そして世界そのものを狂わせる傾国の悪女の顕現だった。
「で、で、殿下……!?」
私は声を裏返らせた。
先ほどまで第一王子派の別働隊を裏で処理していたはずの彼が、なぜここにいるのか。
「……おい」
殿下は、高く上げていた脚をゆっくりと下ろし、キメラの方へと向き直った。
ヒールが泥を踏みしめる音が、やけに大きく響く。
殿下は、足元でへたり込む私を背中で庇うように立ち塞がった。
「僕の体に……いや」
血に濡れ、所々が破れたメイド服の裾が、風に舞う。
殿下のアメジストの瞳が、絶対零度の怒りと、底知れぬ漆黒の魔力を帯びてキメラを睨み据えた。
「僕の『相棒』に何をしている。下等生物」
静かだが、世界そのものを凍てつかせるような宣戦布告。
殿下……。私のために、あんなに怒って……。
先ほどの蹴りで脳震盪を起こしていたキメラが、身を震わせて立ち上がり、三つの首から怒り狂った咆哮を上げた。
毒の息と炎が、殿下に向けて放たれる。
「殿下、危ないッ!」
私の叫びを背に受けながら、殿下はふっと冷酷に笑った。
その唇の端が吊り上がる様は、ゾッとするほど色っぽい。
「心配するな。……君の鍛え上げたこの体、本当に素晴らしいよ。僕の魔術で限界までブーストをかければ、竜だって殴り殺せそうだ」
瞬間、殿下の姿がブレた。
速いっ!? アジリティ極振り!?
日々の雑巾がけと水汲みによって鍛えられた無尽蔵の身体能力に、殿下の天才的な黒魔術による『限界突破の身体強化』が上乗せされた、究極の物理魔術コンボ。
毒の息も、業火も、殿下の放つ魔力防壁と超絶的なスピードの前には児戯に等しかった。
ドンッ!! という空気を切り裂く音と共に、殿下はキメラの懐に潜り込み、その細い腕で巨大な獅子の胴体を思い切り殴り上げた。
『ギャガァァァァァァッ!?』
十メートルを超える巨体が、文字通り宙に浮く。
殿下はそのまま空中へ跳躍し、空中で身を翻すと、ヒールをキメラの中央の首に叩き落とした。
「消えろ」
ズガンッ!!!
隕石のような踵落としが炸裂し、キメラは地面に深々とめり込んだ。
周囲の地面がクレーターのように陥没する。
さらに、殿下が着地した瞬間、彼の足元から漆黒の魔法陣が全方位に向かって展開された。
「【煉獄】」
ドス黒い魔力の炎が吹き上がり、キメラの巨体を瞬く間に包み込んだ。
断末魔の悲鳴を上げる間もなく、第一王子派の切り札は、肉片一つ残さずに灰と化して消滅した。
――圧倒的。
あまりにも理不尽で、暴力的なまでの美しさ。
あれが……私の体?
私の体って、殿下が動かすとあんな戦い方ができるんですか……?
魔獣を屠った死神は、しかし振り返れば、匂い立つような色香を振り撒く一人の美しいメイドだった。
「……ふぅ。泥で靴が汚れてしまったな」
殿下は軽くスカートの埃を払い、炎が消えた地面を一瞥してから、私の方へと振り返った。
「で、殿下……本当に、殿下ですか……?」
私は信じられないものを見る目で、殿下を見上げた。
殿下はコツ、コツと歩み寄り、私の目の前で膝をついた。
そして、泥にまみれた私の頬に、白く細い指先でそっと触れる。
あっ……。
殿下の指先から漂うフェロモンの甘い香りに、私の胸がトクンと鳴った。
「ひどい顔だ、僕の可愛い王子様。……でも、よく僕の体を守り抜いてくれた」
その声は、いつもの意地悪な響きとは違う、甘く、そしてどこか切羽詰まったような熱を帯びていた。
「遠隔からパス越しに君の絶望を感じた時、気づいたら僕の足は、君の元へ向かって走り出していた。……僕としたことが、理性を失うなんてね。でも、君を失うくらいなら、計画が狂うことなどどうでもよかった」
「殿下……」
ポロリと涙がこぼれ落ちた。
殿下が助けに来てくれた安堵。
そして、殿下の口からそんな言葉が出たことへの、胸が締め付けられるような喜び。
二人は森の静寂の中で、血と泥にまみれながら、互いの無事を確かめ合うように視線を絡ませた。
私、どうして。
こんな最低な変態魔王なのに、胸が、苦しい……。
私、この人のことが……。
……しかし。
私の中に芽生えかけた感動的なムードは、大魔王の次の一言で粉々に打ち砕かれた。
「というわけで、決めたよリリア」
「……え?」
殿下は、私の頬を撫でていた手を滑らせ、顎をクイッと持ち上げた。
至近距離で、妖艶なメイドの笑みが咲き誇る。
「遠隔でのサポートには限界がある。……今から、僕が『専属愛人メイド』として、君の生活に物理的に付き添うことにする。寝る時も、風呂に入る時も、片時も離れず、徹底的に君を僕の目の届く範囲で管理してあげるからね」
「…………はい?」
私の思考が完全に停止した。
えっ? 今、なんて? 愛人!?
この歩くフェロモン爆弾のような、息をするだけで周囲の男を魅了の沼に引きずり込む傾国のメイド姿の殿下が!?
王子(私)の傍にずっと!?
「あ、あの、殿下? それは、いくらなんでも目立ちすぎというか、絶対に変な誤解を……! それに愛人ってどういうことですか! 私の純潔と社会的な評判はどうなるんですか!」
「文句は許さない。これは決定事項だ。さあ、凱旋しようか。第一王子派の連中に、極上の悪夢を見せてやる時間だ」
殿下は悪びれもせず、私の手を取って無理やり立ち上がらせた。
さっきの感動を返して!
やっぱりこの人、ただのドS魔王です!
森の奥で、私の悲鳴にも似た嘆きが、空しく木霊していった。
お父様、お母様。
娘はついに、傾国の悪女を愛人に囲う破廉恥王子として、学園デビューすることになりました……!
もうお嫁には行けません!




