第8話 魔法実技(物理)。杖で鳩尾を突く魔法
昼休みの「公爵令嬢襲来(おっぱい地獄)事件」をなんとかやり過ごし、私、リリアは午後の授業へと向かっていた。
場所は再び屋外、広大な芝生の魔法訓練場だ。
だが、私の足取りは、これから断頭台へ向かう囚人のように絶望的に重かった。
はぁ……午後は魔法の実技ですか。
どうして学園ってこう、私の弱点ばかり突いてくるんでしょうか。
私、筋肉と根性しか取り柄のない騎士の娘なので、使える魔法といったらガンコな油汚れを落とす(物理)くらいですよ……。
心の中で血の涙を流しながらため息をつくと、耳元のピアスから冷徹で自信満々な声が響いた。
『安心しろリリア。君が今着ている僕の体は、王国の歴史上五本の指に入る莫大な魔力量を持っている。呼吸をするだけで周囲のエーテルが乱れる、まさに歩く魔力炉心だ』
えっ、そんなに……?
じゃあ、もしかして私でも、杖を一振りするだけでドカーン!って魔法が使えるってことですか!?
淡い期待に胸を膨らませた私を、殿下は無慈悲な刃で容赦なく切り捨てた。
『論理的には可能だ。だが、致命的な問題がある。君の精神構造が、筋肉でできていることだ』
「そ、そんな……! ひどい言われようです!」
『魔法とは、複雑怪奇な数式を脳内で組み立てる高度な演算作業だ。君のそのスカスカな精神には、演算能力など皆無だろう? だから、僕の膨大な魔力を使おうとしても、制御できずに大爆発を起こして自爆するだけだ』
自爆!? ただの歩く時限爆弾じゃないですか!
じゃあどうすればいいんですか!
訓練場には、すでに生徒たちが思い思いの高価な魔導杖を手に集まっている。
皆、一目置かれる「氷の覇王」ことギルバート殿下が、一体どんなド派手な上級魔法を見せてくれるのかと、キラキラと期待に満ちた視線をこちらに送っていた。
ひぃぃ、プレッシャーで胃に穴が開きそうです!
誰か助けて……!
『簡単だ。……「使うな」。ただ、そこに立っていればいい』
「えっ?」
殿下の作戦はこうだった。
まず、私(王子)は絶対に自分から魔法を使わない。
ただ、立派な杖を持って、威圧的に、そして絵になるようにカッコよく立っているだけ。
その間、殿下(侍女)が「開かずの間」から超遠隔の黒魔術で、訓練用の的を破壊する。
つまり、完全に「魔法を使ったフリ」をする、口パクならぬ『杖振り』作戦ですか! それって、立派な詐欺では!?
『人聞きの悪いことを言うな。これは高度な「代理戦争」だ。君は僕の魔力の威光を、その顔と姿勢で表現していればいい。いわば僕の最高級かかしだ』
なんて身勝手な計画なんでしょうか!
文句を言いたかったが、すでに実技担当の、いかにも頑固そうな老魔導師がこちらに向かって歩み寄ってきていた。
「では、ギルバート殿下。最初のお手本として、あの遠方にある岩の的を、殿下の素晴らしい魔法で破壊していただけますかな?」
指名された。
生徒たちの熱い視線が、一斉に私に集中する。
やるしかない……!
もう、殿下の遠隔狙撃を信じるしかありません!
私は覚悟を決め、王家に伝わる豪奢な魔導杖――金と黒檀で装飾された、無駄に重い儀礼用の杖を両手でしっかりと握りしめた。
そして、お父様の厳しい騎士の修練で培った、一点の曇りもない完璧な姿勢で、杖の切っ先を標的に向けて構えた。
背筋を伸ばし、顎を引き、丹田に力を入れ、的を真っ直ぐに見据える……!
お父様、見ていてください、娘の完璧な構えを!
その姿は、我ながらあまりにも様になっていたらしい。
一ミリのブレもない杖の切っ先。
すべてを見透かすような鋭い眼光。
周囲の空気が張り詰めるような、静謐にして絶対的な威圧感。
生徒たちは一斉に息を呑んだ。
「これが、王家の剣術の型と魔術を融合させた、伝説の構えか……!」
よし……完璧なポージングです!
今だ! お願いします、ギルバート殿下!
ドカンと一発、派手にお願いします!
私は心の中で叫んだ。
だが。
――シーン。
何も起こらない。
岩の的は微動だにしない。魔法の光一つ発動しない。
気まずい静寂だけが、訓練場を支配する。
……あれ? 殿下?
もしもし? 通信障害ですか!?
「……あの、ギルバート殿下? いかがなされましたか?」
老魔導師が怪訝な顔で声をかけた。
私の背中を、嫌な冷や汗が滝のように流れた。
『――すまん、リリア』
ピアスから、ひどく間の抜けた、そして情けない声が聞こえた。
『今、侍女長にせがまれてしまってな。……少し待て』
……は?
私の思考が完全に停止した。
な、な、何をやってるんですかあの馬鹿王子はぁぁぁぁッ!!
こっちは今まさに公開処刑の真っ最中なんですよ!?
私は心の中で血の涙を流して絶叫した。
どうする? 私!?
このまま、杖を構えたマヌケな案山子として棒立ちで恥をかくか?
「腹が痛い」と仮病を使って、トイレという名のセーブポイントに逃げ込むか?
いや、だめだ。
そんなことをすれば、午前中にせっかく築き上げた「氷の覇王」という最強の称号が崩れ去ってしまう。
そうなれば、第一王子派の刺客たちに舐められ、命を狙われる日々が待っている。
ざわ、ざわ……。
周囲の生徒たちが、不審がり始めた。
「もしかして殿下、魔法が使えないのでは……?」
……やるしかない!
私の奥底に眠る、騎士の血が静かに沸騰した。
私は、手に持っている「魔導杖」を見つめた。
これは魔法を使うための、由緒正しき道具だ。だが、物理的な形はどう見ても「ただの硬くて長い棒」だ。
お父様が言っていました。
「剣士たるもの、手に持てるもの全てを武器とせよ。杖だろうが箒だろうが、気合で突けば槍になる!」と!
私は、高貴な魔導師とは思えないほど、ズンッと深く腰を落とした。
そして、魔導杖をまるで「長槍」のように小脇に構え直した。
「……せぇ、やぁああああッ!!」
私は、王子のひ弱な体で、全力疾走を開始した。
目標は、五十メートル先の硬い岩の的。
生徒たちはポカンと唖然とした。
「魔法を使うんじゃないのか!? なんで殿下が、杖を持って猛ダッシュしてるんだ!?」
私の身体能力(中身)は、王子の貧弱な肉体を完全に限界突破して酷使した。
足がもつれそうになるのを気合でカバーし、虚弱な心臓が悲鳴を上げるのを無視する。
いっけぇぇぇぇっ! 私の全筋力を込めた、渾身の物理魔法ですっ!
「うぉぉぉぉぉっ!! 当たれぇぇぇぇっ!!」
私の(中身は乙女の)雄叫びが、訓練場に響き渡る。
私は岩の的の直前で、父親直伝の強烈な「踏み込み」を行った。
ザッ!! と芝生が深く抉れる。
そして、全身のバネを使って、魔導杖の先端を、的の中心に向かって思い切り突き出した。
――神速の、物理的な『突き』。
だが。
カィィィン……。
ひどく情けない、気の抜けた金属音が響いた。
魔導杖の先端が、硬い岩に呆気なく弾かれたのだ。
当然だ。
魔導杖は本来、人を殴ったり岩を砕いたりするための鈍器ではない。
しかも、今の王子の体には、岩を砕く筋力などスライムほども存在しないのだ。
だ、だめだった……!
物理攻撃が通らない! 完全レジストされました!
私は勢い余って、的の前で無様にすってんころりんと転倒してしまった。
土埃にまみれ、肩でぜぇぜぇと息をする。
「……」
訓練場が、絶対零度魔法を食らったように氷ついたように静まり返った。
老魔導師も、生徒たちも、口をポカンと半開きにしている。
終わった。私の尊厳も、殿下の威厳も、すべてが終わりました……。
お父様、お母様、リリアの学園生活は、ここで終わりです……。
私は絶望した。
これで王子がただの無能な魔法使いであることがバレてしまった。
ギルバート殿下に殺される。
私の人生、ここでジ・エンドだ。
だが、その時。
最前列にいた生徒の一人が、ガクガクと震える声で呟いた。
「……見ろ。あの杖の先を」
全員の視線が、私が渾身の力で突き出した魔導杖の先端に集まる。
そこには、岩の表面に、ほんのわずかな『小さなヒビ』が入っていたのだ。
「……まさか」
「強力な魔法耐性コーティングが施されている、あの訓練用の特注の岩を……!?」
「詠唱もなしに、ただの『物理的な突き』だけでヒビを入れただと!?」
ざわめきが、地鳴りのような熱狂へと変わっていく。
「殿下は、あんなちっぽけな的など、魔法を使うまでもない、ということか!」
「至高の魔導杖を、あえて『槍』として使う……なんて斬新で恐ろしい発想なんだ!」
「そうか! あれはただの突きじゃない! 無詠唱の極大『身体強化魔法』だったに違いない! でなければ、あの引きこもりの細腕であの神速の動きは絶対に出せない!」
――再び、奇跡的な大誤解である。
ち、違います! 私はただ、騎士のド根性で全力疾走して、ヤケクソで突っ込んだだけなんです!
岩にヒビが入ったのは、ただ単に、杖の装飾に使われていた黒檀の木が、王家の財力を結集した異常に硬い超高級素材だったからに過ぎない。
だが、集団心理という名の魔法は恐ろしいものだ。
一度「殿下は天才だ」という強烈なバイアスがかかると、どんな無様でマヌケな失敗も、「常人には理解できない高度な計算に基づく神業」に見えてしまうらしい。
「す、素晴らしい……! 無詠唱で、極限の身体強化魔法と、杖への物質強化魔法を同時に行うとは! これぞまさに、武と魔の究極の融合!」
老魔導師までが、滝のような涙を流して感動に打ち震えていた。
私は土埃にまみれた顔で、キョトンとしていた。
そんな私の耳に、ピアスからようやくモップ掛けから解放されたらしいギルバート殿下の大爆笑が聞こえてきた。
『あはははは! 最高だ、リリア! 僕が侍女長を調教している間に、まさか物理で殴って対処するとは! 君のその清々しいほどの脳筋ぶりには、もはや魔王すら敬意を覚えるよ!』
……殿下の、どあほ。
次に会ったら、その杖で殿下のお尻を叩いてやります……。
私の小さな疲労困憊の悪態は、訓練場を揺るがすような熱狂的な拍手喝采の渦に、無情にもかき消された。
こうして、第三王子ギルバートは「無詠唱魔法の使い手」であり、「魔導杖を槍として振るう武闘派魔導師」という、わけのわからない新たな最強伝説をまた一つ手に入れてしまったのだった。




