↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
9/60

御影

 日野家と蒲生家を並べると、すべて持って行かれてしまう。「日野」に根づいた両者が不思議と鶴「対い鶴」を家紋としていることはさておき

 細川晴元が娶った三条公頼娘だ。作者は、晴元は継室が六角定頼娘であり、ここで、後妻として、定頼娘と縁付くのかと思っていた。

 とんでもない。定頼は、もっと、徹底していた。

 晴元が、天文六年(一五三七)四月に娶った三条公頼娘、これはじつは、六角定頼の猶子になった上で、晴元の正室になっている!!

 この後、継室として定頼の娘が嫁ぎ、さらに、本願寺に接近する際、顕如の妻に三条公頼の別の娘、先妻の妹を、一度、定頼娘と晴元の養女とした上で、顕如に嫁がせている!! 

 フル回転だ。

 せわしないくらいに偏執的な婚姻政策だ。徹底して、定頼は、晴元を「婿殿」とした。 義晴正室を送り込んだ近衛尚通について触れると、彼は、北条氏綱にも娘をやっている。有力公家と戦国大名の結びつきが顕著になっている。

 定頼と晴元が急接近している一方、義晴は、自分が神輿でしかないと、いい加減気づき始めていたのだろう。天文五年(一五三六)三月十日、近衛尚通娘との間に、菊幢丸(きくどうまる、後の足利義輝)が生まれている。

 八月二十七日には、菊幢丸に将軍職を譲ることを表明、引退である。

 つい、十代義稙や十一代義澄がやっていた、引退するということで、周囲におのれの希望を聞き入れさせる手法を思い出してしまう。後にこの引退は撤回されたが、義晴の暗鬱な気分をかいま見る出来事だった。菊幢丸は、誕生直後に、義晴から願い出て、関白・近衛尚通と猶子になっている。いよいよ、日野家から離れようという定頼の方針だろう。

 それはそれで異論がないものの、引っかかるものを感じていただろう。

 (八幡神族の八幡旗手の、つまり、黒幕が入れ替わっているだけではないか)

 菊幢丸の「幢」という字は、名前としては珍しく感じるが、これは旗、軍隊の指揮に用いる旗のことだ。仏教の儀式にも使われ、字体の似ている「幡」と、幢幡、と二字で用いられる。幢幡は、本堂や仏壇を飾る仏具だ。幢は幡とほぼ同じ意味であり、ここにも、なにか含意があるのかもしれない。菊(皇室)と幡(武家)・・ーーー

 『二万を超える討伐軍を受けて、六角行髙は観音寺城を放棄して脱出、甲賀城へ移る。』

 本稿からの抜粋、第一次六角氏討伐(一四八七)である。九代足利義尚に下剋上を咎められ、侵攻された。定頼の父高頼(初名が行髙)は観音寺城から甲賀へ脱出。『討伐軍は甲賀城をも陥落させるが、行髙は甲賀武士を率いて山中でゲリラ戦を展開、奇襲攻撃、夜襲、放火をくり返し、幕府軍を疲れさせた。』

 さらに第二次六角氏征伐(一四九一)十代義材(義澄)によって敢行された。

 『六角高頼は、甲賀へ撤退、またゲリラ戦を展開した。だが、赤松政則重臣・浦上則宗と尾張守護代・織田敏広の活躍により、六角氏一族・山内政綱が降服、義材は赦さず処刑している。』

 

『そして八月一日、近江国甲賀郡の国人らを味方につけた三好之長が、髙国勢と合流して京都・澄之の屋敷「遊初軒」へ攻め寄せる。遊初軒は陥落し、澄之自害。香西元長も自害し、クーデター派は滅びた。』 永正の錯乱(一五〇七)細川政元が、九条家出身の養嗣子・澄之に討ち取られた。澄之は同じく養嗣子の澄元(阿波細川家出身)を近江へ追った。だが、甲賀の国人・山中為俊を味方につけた之長と、澄元支持を表明した髙国によって澄之は滅ぼされる。

しかし、そうして樹立した澄元政権も、家宰・三好之長の倨傲が嫌われ、伊勢国に逃れていた髙国のもとに反乱軍が結集する。『永正五年(一五〇八)四月九日、髙国軍は京都を陥落させ、細川澄元と三好之長は、甲賀へ逃れた。』

この頃の近江は、六角高頼と、その重臣・伊庭貞孝の権力争いが起こっていた。これは、義稙派の伊庭貞孝と、それに消極的な高頼との対立も一因になっている。細川髙国が京都を掌握した後、上洛する義稙・義興に下る。つい先年の永正の錯乱で逃げてきた三好之長を保護したこともあり、近江の指針は一貫している。

 その後、澄元・之長とともに逃れてきた十一代義澄は、近江御所を発足させる。この近江御所は、京都と抗争するが、大内義興の大兵力が味方する義稙政権を倒すことが出来ない。

 (大内が味方している限り、近江御所の勝ちはないのではないか?)

 高頼は、そんな風にかんがえ始めたのではないか?


『永正八年(一五一一)六月、義澄が仕掛ける。京都を包囲する勢力圏を形成すべく、次男・義維(よしつな)を阿波の細川澄元のもとへ、長男・義晴を、播磨の赤松義村(藤原北家水無瀬流七条氏出身、赤松政則の養嗣子)のもとへ遣わし、蜂起の準備を進める。

 『髙国は、これを迎え撃つが、苦戦を強いられ、八月上旬総崩れになる。河内でも細川澄元軍が畠山尚順軍を破り、四大名制(髙国、尚順、義興、畠山義元)の二角が落ちる事態に京都は大混乱になる。

 だが、八月十四日、事態が急変する。

 現在の近江八幡市、水茎岡山城で指揮を取っていた十一代将軍・足利義澄が、急死したのだ。

 享年三十二歳、京都と近江御所が決戦に及んでいる最中の死であり、暗殺説もある。』

  

 『義澄の死によって、近江御所は崩壊した。いや、実際は、その少し前から、六角行髙が、義稙側へ寝返る動きを見せていた。

 義材が義稙になっているのに、行髙がいつまでも初名のままなのも違和感がある。以後、高頼という改名後の名前にあらためたい。

 六角高頼は、義稙との因縁浅からず、義澄派の支柱かと思えたが、どうも、そうでもないらしい。この紛争の時代にあっては翻転常ないというのか、甲賀忍どもの魔性に浸ったか、冷淡なものだった。

 そもそも、京都を追われた義澄を保護したこと自体、二度の六角氏討伐で冷え切っていた足利将軍家との関係を修復する目論見があったからだ。明応の政変直後は、義澄に接近する動きを見せたが、その後、高頼が在京中に、六角氏の所領押領問題で義澄と争い、伊勢貞宗が仲介するものの、近江に帰国するという事件が起こっている。』

 

 第二次六角氏討伐で義稙にやり込まれた高頼は、明応の政変後、当然、義澄に接近する。だが、義澄とも下剋上が問題で関係がこじれ、近江へ帰国。

 その後、永正の錯乱、髙国の台頭と事変が続く。三好之長を甲賀に保護した関係上、髙国に澄元や之長が追われ、いっしょに義澄が逃げてくると、これを庇護して近江御所を成立させた。

 だが、義澄存命中から、高頼は、微妙に軸足を義稙へ移しており、義澄が没し近江御所が消滅すると、晴れて義稙陣営につく。

 『畿内に進出した細川澄元は、再び阿波へ引き返した。義澄が亡き後、逼塞を余儀なくされる。』

 その後、京都は、義稙と、四大名並立制の中、四大名の軋轢はあるものの、平穏に運営される。

 永正十年(一五一三)には、四大名に「不満」のある義稙が甲賀に出奔するという事件が起こる。そんな義稙を滞在させているのだから、高頼と義稙の関係は良好だった。

 

 だが一方で、こうして列記して見ると、近江は、自らも征伐を受けながら、京都から逃れた人士を甲賀に引き受けることがじつに顕著だ。これは地勢上のことがあるのだろうが、じつはこの頃から、六角氏は京都情勢に介入しようと、引き受けた勢力を選抜し、協力していたのではないか。義稙に京都を追われた細川澄元・三好之長・足利義澄を引き受けているあたり、情勢非なるものたちを引き受けているわけで、どうも、山師根性がある。

 思い返せば、佐々木道誉(京極道誉)の頃から、討幕派の後醍醐天皇に加担した痕跡があり、その後、等持院尊氏に味方していたり、既存の権力に属さない陣営に加担し、あわよくば一挙覆して天下に躍り出ようという気炎がある。ーー忘れてはいけない。佐々木源氏から京極氏や六角氏は出ており、彼らは佐々木道誉と同族なのだ。

 そして、永正十六年(一五一九)『大内軍が撤退すると、三好之長は、澄元とともに動き出す。』

 阿波から摂津に上陸した三好之長が京都を陥落させる。髙国が近江へ逃れるが、義稙は同行を断る。髙国を見捨てた形になった。

 『しかしここで、奇跡のような逆転劇が起こる。近江へ逃れていた髙国が、六角氏を頼り、蒲生定秀、朝倉孝景(孝景は応仁の乱で活躍した七代目と十代目がいる。今回は十代目)土岐頼武、内藤貞正らと連合し、四万とも五万とも言われる大軍団を結成。』

 ここで、作者が強烈な違和感を感じる六角定頼他、周辺大名の与力だ。佐々木道誉、六角高頼に見られる山師根性、では、さすがに片付けられない。京を追われ将軍の後ろ盾もない、ただの細川髙国である。

 この髙国が、後に晴元に戦いを挑み、堺幕府を攻める時は、一年間ほどかけて、将軍義晴を擁しながら、やっとで二万の軍勢を用意できただけなのだ。それに対し、等持院の戦い、近江からの巻き返しの際は

 『ずいぶん急な展開である。髙国が近江坂本に逃れたのが二月十八日、京都に再来するのが五月三日、三ヶ月も経っていない。』

 二ヶ月半で、三万から五万の大兵力を用意した。

 

 注目すべきは、高頼が、じつは、永正三年(一五〇六)の段階で、嫡男・氏綱に家督を譲っていることだ。この氏綱は、若くして没し、しかも僧籍にあった定頼が陣代として政務を一部代替していた。そのため存在感がないが、永正十五年(一五一八)七月に没するまで、近江御所や義稙政権との外交は、彼が当主としてあたっていた。氏綱が没すると還俗して定頼が後を継ぐ。高頼は、等持院の戦いが起こった永正十七年(一五二〇)末に没する

 等持院の戦いは、定頼が当主となって最初の大きな出来事だった。

 京都を陥落させた三好之長とは、先代が、永正の錯乱で引き取った縁があるが、その後、義澄を見限った時に、もう、関係性は途切れている。このまま、義稙を之長が戴けば、関係が微妙になるだろう。

 (だが、こちらの大義名分は、義稙からも見放された髙国一人ときた)

 山師根性が疼く展開ではある。調子を崩している親爺殿に、よいところを見せてやりたい。

 

 ーーこの間、定頼と高頼との間に、どんな会話が持たれたのか、興味が尽きぬ。ただ、どうしても、小説的に描き出す以外ない。

 「蒲生のところの弟が、兄を差し置いて家督を継ぎたいと言っていたであろう」

 「高郷、ですな」

 「わが一字をくれてやった。あれは、六角の与力よ。向後よくしてやれ」

 「蒲生が、六角の傘下に・・」

 「常徳院足利義尚がわいらを攻めた時から、ハラは決まっていた」

 六角氏は、じつは、応仁の乱の辺りから内紛があり、系図がはっきりしない。高頼は、義稙に第二次六角氏討伐を起こされ、伊勢へ逃れた。家督は六角虎千代という人物に移った。その後、明応の政変で義澄が将軍になると、近江守護に復帰した。

 「ーーいや、その義澄とも、うまくいかなんだあたりからかな?

 「最早、足利将軍家の下にいることはできぬ

 「佐々木源氏は、あやつらとはべつの権威として立たねばならぬ」

 一族の内紛、国人衆の台頭、浅井氏の謀反・・これらを鎮め、近江を一つに保つ。

 そのためにも、佐々木源氏の権威を、満天下に示さなくてはならない。

 「真夏流日野家が足利将軍家の後ろ盾ならば、そこから追い出されたわれらは

 「三上流蒲生氏をもって、秦氏の棟梁として君臨しよう

 「日野家に嫁いだ息長氏の祖、われらはその末裔よ」

 山城の日野に代わり

 近江の蒲生郡の日野が日本(ひのもと)を統べる。

 

 「どのみち、このまま、三好之長が天下となれば、われらは日和見以外に浮く瀬がない

 「ならば、髙国めを担いで乾坤一擲、やってみようではないか」

 

 このようなやりとりがあり、わずか満十二歳の蒲生定秀を出陣させ、八幡旗手・六角定頼が、旗揚げした。

 土岐頼武(妻朝倉氏)

 十代目朝倉孝景

 彼らも同調し、さらに、京兆家に仕える丹波内藤貞正(秀郷流千晴系)も、味方になった。

 (なぜ、髙国が、これほどの大軍を催せる!?)

 老獪なる三好之長も、さばききれないほどの大軍団が、京を襲った。ーー天下は髙国に、いや、六角定頼に帰した。

 蒲生対い鶴御所「日野」に共通する鶴の紋所の、華々しい旗揚げだ。

 (佐々木源氏は十二分に、堅忍自重した

 (今や忍びの刃をともに、河内源氏を追う!!

 

 (天之御影神の末裔がーーーーーーーーーーーーー!!)

 

 髙国を担ぎ、将軍を擁し、将軍が逃げた後は、別の将軍を立てた。

 六角氏の時代である。

 

 

 

 

 高頼は、没後、翌年に朝廷から、どういうわけか神号を贈られている。

 「甲賀大明神」

 それが、高頼の神号だ。

 

 もしかして、定頼が朝廷に働きかけて贈らせたのかもしれない。ちょっと、ブラックユーモアが利きすぎている。甲賀は、さまざまな政争敗北者を引き受け、捲土重来の地盤となり、謀反の温床となった。その帰結が、等持院の戦いで、まさしく等持院に眠る尊氏の子孫を、佐々木道誉の子孫が傀儡にするところまできた。

 足利又太郎源尊氏

 佐々木四郎源高氏

 (同(・)名(・)異(・)字(・)殿(・)

 (今こそわれらは一つになった)

 かのバサラ僧侶も、哄笑していただろうか。

 高頼自身、何度、甲賀の国人衆とともに、足利将軍家に弓引いたことか。

 

 叛心(ホンシン)暗躍する刃。

 

 朝廷のお墨付きだ。

 

 これが佐々木道誉以来の京極氏や六角氏のスタンスだとすれば、恐るべき一族としかいいようがない。

 

 対い鶴。向き合った二羽の鶴。統合と両立。

 

 それが、明立天之御影命の司るところである。

 

 

 

 

 


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。