鶴翼
同年、天文五年(一五三六)八月二十九日、本願寺と組んで晴元を悩ませた髙国弟・晴国が、摂津天王寺で討ち取られた。完全に畿内を平定した晴元は、管領に就任。
若僧が夢を叶えた。
そして晴元は、翌天文六年(一五三七)四月十九日に、三条公頼の娘を娶っている。三条家は、家格は「清華家」上から二番目である。この公頼は、別の娘を武田信玄に嫁がせている。
そういう時代になったのだ。公家の荘園は次々押領され、強制的な土地制度の再編が進んでいた。血筋を武器に戦国大名と結びつかなければ、どうにもならない。三条公頼など、細川家、源氏の名門甲斐武田家(近年の研究で嫡流は安芸武田家だったことが明らかになり、甲斐武田家は一段家名を落とした)と縁付いていて、十分家柄のいい親戚なのだが。
これに先立つ天文三年(一五三四)六月八日、将軍義晴も、近衛尚通の娘を正室に迎えている。
日野家との通婚関係に、ピリオドが打たれることになった。
義晴は、名目こそ日野家娘を母としているが、生母は「阿与」という下級の侍女だ。
(ようよう、日野家との腐れ縁が断たれたわい)
八幡旗手・六角定頼は、ほくそ笑んだだろう。ーー彼こそが、室町幕府の闇将軍として君臨している。ちなみに、闇将軍というのは、田中角栄が最初に言った、政治の世界で表向きは長ではないものの、裏で実権を握っている大物のことだ。田中角栄自身、小沢一郎、安倍晋三がこれに該当するらしい。
定頼は、よくかんがえれば、蒲生定秀その人よりも、八幡旗手としては貴胤なのだ。なんとなれば、蒲生家の嫡流は、定秀やその父・高郷ではない。高郷兄秀行のラインだ。
定頼や、その父高頼は、蒲生氏の嫡流移動に協力した。
それでいながら、自身は、佐々木定綱(一一四二─一二〇五)というはるか以前に、蒲生惟賢娘という嫡流と縁付いている。
系図で繋がる秦氏の習性、この事実は、蒲生対い鶴御所の、微妙なパワーバランスに作用していたかもしれない。
日野家としては、苦しい状況だろう。桂川原の戦いで三好元長・細川晴元軍に討たれた日野内光の嫡子晴光は、ようやく元服したかどうかという年齢だ。
定頼の代に、かなりのところ、室町幕府の闇将軍は、八幡神族から、八幡旗手へ、移り変わったのではないだろうか。
それを証明するかのように、晴光の次の代、日野家の当主は、分家・広橋家から輝資を迎える。
広橋家は、本願寺の中興・蓮如と猶子縁組みした家で、九条家に離れつつある本願寺勢力との融和を図ったのだろう。以後、十八世紀初めまで、広橋家の当主が続き、幕末から大正期に掛けて、また広橋家当主が復帰する。ーーじつに、本稿としては、気になる時期を担当している。
『武生(たけふ、福井県南条郡武生)の町のうるしやでそばを食べながら、とりとめもないことを考えた。
『地名のことである。
『この武生盆地の東南にあたって、野を威圧するように脹れあがっている山がある。日野山(七九四・八メートル)という。日野という地名が、気になる。
『川の名にもなっている。武生の市街を北流して遠く福井市北方で足羽川に合し、九頭竜川に流れこむのが、日野川である。
『(日野という地名は、古代製鉄とかかわりがあったのではないか)
『という妄想が、むかしから私の頭を離れない。
『製鉄が、火とかかわりがあったからだろうか。それとも《《たたらふき》》は日(太陽)の神を信仰していたからだろうか。むろん、その証拠などない。むしろ中世以降の製鉄師がその高殿(製鉄場)のなかで信仰していたのは太陽ではなく、特殊な神であったことは、はっきりしている。
『その上、上代の言葉では、日と火は、発音のちがった別語であったとされている。日は国語学でいう甲類で、fi であり、火は乙類で、《《fi》》 である。
『そのように詮索してくると、まことに無意味な妄想になってくるが、古代製鉄がさかえた地にヒノという地名があったり、ヒノ川が流れていたりするのは、偶然なのかどうか。
『古代製鉄の代表的な土地として、出雲の国と伯耆の国がある。
『両国は相接しながら、両国にヒノ川という同名の川がそれぞれ流れている。伯耆にあっては日野川であり、出雲においては、もっとも良質の鉄を出す鳥上山のあたりが『出雲国風土記』では「斐伊大河上」とよばれていた。斐伊は二字をもって「ひ」と訓ませていた。音は、日野川とかわらない。右は単に感想にすぎず、牽強付会すべきものではないが、武生を流れている日野川を見ると、つい出雲や伯耆の古代製鉄を連想せざるをえず、さらには、古墳時代に継体天皇を成立させるまでになった古代越前の旺盛な鉄製農具の生産と水田開拓の歴史をおもわざるをえない。』 (『街道をゆく 越前の諸道』)
『製鉄の適地にまつわる地名「ヒノ」
日野氏の名の由来は、京都市伏見区日野にある真夏流の氏寺法界寺(日野寺)だ。このあたりは、真夏流の領地だったというが、法界寺のある醍醐山麓、山続きの北方に、如意ヶ嶽製鉄遺跡群がある。そして、伏見区にも日野川が流れている。ーー日野家は、薬子の変では、平城上皇・秦氏陣営についた。もともと山城は秦氏の勢力圏だ。ーーこの製鉄に使われていた土地を、献上されたのではないか。
そして、本稿が触れようとしても、なかなか近づけない蒲生氏。
その本拠地は蒲生郡日野だ。
八幡神族、八幡旗手。
その本拠地が「日野」・・ーーー
この「日野氏」に、在野の、製鉄と鉄器と農耕で成立した秦氏「百姓」が、かしずいた。
鉄の偉観、、ーーーー農具であり武具。
武神の民。』
八幡神族、八幡旗手、本稿が注目する秦氏の現人神が、両家とも、製鉄の好適地「日野」を本拠地としている。秦氏は製鉄業者にして、農夫、そして武士。鍛冶、農具、武具。
どれも鉄。
あまりに意味深長で、広遠な背景を匂わせる「日野」という共通点。
それだけではないのだ。
蒲生対い鶴御所、この第三期秦氏政権の名は、蒲生家の家紋に由来している。
日本の家紋は、何万種類もある。その内、動物紋は、全体の7~8%ほど。
決して大きな比率ではない。
それなのに、日野家の家紋も「鶴」なのだ。
「鶴の丸」という鶴紋としては代表的なものだ。一割以下の動物紋の比率で、しかも鶴というモチーフまで合致した。
これは、偶然なのか、どうか。
さらに、日野家は、江戸時代になると「高家」という礼法を伝授する家柄に指定される。浅野内匠頭にそれをした吉良上野介も「高家」である。日野家は、この「高家」に六角院家
略して六角家、そう呼ばれる分家を出している!!
なんなんのだ? 寄せすぎだし、重なりすぎではないか?
日野、鶴、製鉄、六角、八幡旗手、蒲生、八幡神族!!
そして、広橋家、本願寺と、おそらくは武家との接近も図ったのであろう、爾後代々武家伝奏として活躍する日野家当主一族。
彼らの家紋は「対い鶴」だ。
さらに、蒲生対い鶴御所へ、接近している。
傍証はいくらでもある。ーーそれが、八幡神族、八幡旗手のレベルでも。
歴史の行間に、秦と八幡は鳴り響いている。




