黒幕は六角氏2
翌七月二十八日、南禅寺の足利義晴は、朝廷に「日蓮宗退治落居(落着の意?)珍重」と報告している。
細川晴元と法華宗が対決した、とどのソースにもあるが、軍は出さなかったようだ。
『1527年(大永7)三好元長に擁せられて堺に上陸,足利義維を将軍跡目に戴いて,事実上畿内に覇を唱え,31年(享禄4)前管領細川高国を敗死させてから細川惣領家家督となり,山城,摂津,丹波,讃岐,土佐の守護に就任,畿内の3ヵ国は49年(天文18)まで実質的に支配した。執政の初年は一向一揆,法華一揆が畿内各所に蜂起して混乱を極めたが,36年までに逐次鎮圧した。』 (コトバンク「細川晴元」出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」)
つまり、定頼がもう、抜きがたく室町幕府の重鎮であり、軍事力だった。十二代将軍義晴をトップに、事実上の管領細川晴元、ご意見番、闇将軍の六角定頼、こういう構図が成立していたのだ。
義晴が、天文法華の乱の前段、叡山から訴訟を持ち込まれた段階で、法華宗有利の判決を出して、その後、乱が終わると「日蓮宗退治落居(落着)珍重」だ。この浮動的なところが、義晴が傀儡だった実情を物語っている。定頼や晴元が叡山につくと決定すれば、幕府は抗えなかった。つくづく弱体化している。
延暦寺や六角勢の残党狩りが始まると、これに乗じて略奪や狼藉が働かれた。七月三十日、後奈良天皇が、幕府へ略奪を禁止するよう伝えている。閏十月七日には、細川晴元が、法華宗へ三ヶ条の禁令を出す。法華宗僧侶は、洛中洛外の徘徊、還俗や他宗への移籍、寺の再興を禁じられる。事実上の禁教令だ。
法華宗は、京都から追放された。
法華宗が京へ戻るのは、天文十一年(一五四二)六年後になる。
これも、六角定頼の斡旋だ。朝廷から、法華宗の京都帰還を許す勅許が下りた。叡山は「爾今は諸法華宗は叡山の末寺たるべし、諸事指図に従うべし」と傘下に下るよう迫った。
日蓮宗は、また定頼を頼り、彼が、両者の間を調停した。天文十六年(一五四七)定頼によって、ようやく和議が成立する。
こう言ってはなんだが、日蓮宗は、時の権力に接近する嗅覚と本能は、歴史上幾度も発揮されている。時に俗世に近づきすぎると批難されることもある彼らが、定頼を全面的に頼ったのだ。
六角定頼は、それだけの存在になっていた。




