三好長慶十六歳
そんな甲賀大明神の庇護の下、定頼は晴元の父親となり、室町幕府を掌握した。天下の執権というには、もう少し強権がほしいところだが、少なくとも天下の重鎮ではある。
(案に相違したやもしれぬ)将軍を戴いた。京兆家当主と縁続きになった。
だが、国人衆の鼻息は荒く、その棟梁たる浅井氏は妥協しない。浅井亮政との争いは、天文七年(一五三八)に定頼自身が亮政の軍と激突し、佐和山城、小谷城を陥落させて、ようよう終わる。
ーー実力で打ち鎮めなくては収まらぬようになったのか・・ーーーー~~
暗然としただろう。五畿内が「天下」であり、これを平定し、将軍を戴けば、それで日の本は治まる。
どうも、そんな甘い状態ではない。ーー下剋上の火が吹き出す底で、新たななにかが鍛え上げられている。
天下に、武権を布衍させる・・「天下布武」
しかもその天下は、正真正銘「天が下」になりつつある!!
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定頼が位置を高める中、蒲生定秀も、出世している。朝廷から、左兵衛大夫に任じられたのだ。これは五位相当の官職だ。従五位下で国持大名なのだから、破格だろう。八幡旗手として、箔を付けられている。
さて、京都情勢に戻ろう。三好政長という男がいる。元長の傍系にあたる(祖父が之長弟)人物で、木沢長政らとともに晴元政権の重鎮だ。かつて、元長を讒謗し、後に長政と手を組み彼を滅ぼした。どういう人物か察せられるだろう。元長に代わり、室町幕府料所・河内十七箇所(代表的な荘園、惣村)を代官として支配した。
この政長が、一線を超えた。河内の領主だった彼は、山城下郡にも段銭(タンセン、臨時税、この頃は恒常化、田畑一段、一反ごとに課せられたため)を課すようになる。
これに、満十六歳、ようよう元服したというところの三好長慶が噛みついた。ただでさえ、政長は面白い相手ではない。父を殺し、父に代わって河内を統治している。
そんな男が、山城守護代だった父の版図・京都に手をつけた!!
長慶は、幕府と連絡し、政長の勝手な課税に譴責を加え、河内十七箇所に、おのれの代官を派遣する。ーーじつに手際のいい十六歳だ。幕府も政長の行動を快く思っておらず、三好宗家当主に協力した。翌天文八年(一五三九)正月十四日、摂津越水城から上洛、さらに幕府と政長の独断行動への協議を持ち、彼を丹波国へ蟄居させる。すでに木沢長政が間に立って、長慶と晴元の和睦が成立している。幕府と協議した翌日、晴元から、鷹を与えられている。ーー尾張の織田信秀が献上したものだ。三英傑の時代に近づいている。正月二十五日、晴元を酒宴に招き、そこで、自らを河内十七箇所の代官職に任命するよう晴元に迫った。
(元長の伜に、か)多少の後ろめたさはあっただろうが、最後には、元長は、腹心の木沢長政の居城を攻囲する敵将の立場にあった。
晴元は、断った。
ずいぶん大人びているが、長慶は満十六歳だ。一向宗を動員して父を殺した男を相手に、平静ではいられなかったのだろう。
これが、ずいぶん深刻な遺恨になった。長慶には怒る資格がある。
長慶は幕府へ訴え出た。内談衆(将軍側近)の一人は長慶の要求を認めたが、義晴は長慶と晴元の対立を解消しようとした。やはり、定頼が出ることになり、二人を仲介するが和睦は成立しない。
ーーどうも、酒席で切り出した、というレベルの要求ではなくずいぶんな強談判だったらしい。
遺恨だろう。
長慶は、ここで、軍事的な手段に踏み切った。彼は上洛する際、二千五百人の兵を率いていた。さらに本願寺証如と連絡を取り、後援を取り付けた上で、再度入京する。
完全に、戦争を仕掛けている。
どうも、怒り心頭に発して上洛し、自分の願いが聞き入れられないと、遺恨がそのまま炎上して、合戦の沙汰に及んだようだ。
証如の後ろ盾を得ているあたり、もう意趣返しではないか。
(父上からはありとあらゆるものを奪ってくれたな
(おれは貴様に妥協せんぞ)
そういう硬骨で動いている。ーー思っていたよりも個性的な人物だ。




