内ゲバとパージ
京都には、江州御所もいなければ、堺公方も、晴元さえいない。享禄元年(一五二八)時点では、暫定的に柳本賢治(丹波波多野)が、京都を支配していた。しかしそこに、四国から三好元長が乗り込んでくる。京都は二人の支配者が立つことになったが、堺公方は、このどちらが統治者が、明言していない。
果たして、二人の間で対立した。そもそも、先の川勝寺口の戦いでも、その後の和睦を巡って対立していた二人なのだ。[四国勢としては、丹波の人間である賢治が京都統治しているより、手勢である元長に任せたかったのだろう。だが畿内の主戦力である賢治をのぞく決断もできないまま、中途半端な処置に甘んじていたのではないか]
京の寺社や公家衆は、どちらにおうかがいを立てて良いのか分からず、二人は主導権を巡って争った。結局、堺公方が働きかけ、元長が下山城守護代となり、京都の統治者になる。[このとき、元長が下山城の各郡に封じた郡代は、阿波の国人だった。やはり、四国勢の本音は、手勢で京都を支配したかったのだ]
ことほど左様に、元長の京都支配は、即ち、阿波人の京都進出でもあった。柳本賢治は、これに追われるように、享禄元年年末にかけて、大和へ出陣し、政長流畠山氏のこもる高屋城を陥落させている。
そこから、山崎へ軍を出し、京都情勢への復帰を狙うが、これは、元長と阿波国人衆に阻まれ、撃退される。
阿波人と、畿内人の対立が、同じ堺幕府方の軋轢になっている。賢治は、翌享禄二年(一五二九)三月にも京都へ出陣するが、やはり、撃退されている。
この連敗を受けて、六月、賢治は、江州公方・義晴に接近。
和睦を推進する。
(よし、割れてきた)堺公方の京都支配を巡る不和には、定頼も、調略の手をのばしていたのではないか。
何しろ、堺公方と和睦する。
その上で、阿波細川家とつながっている晴元を、義維方から、義晴方へ寝返らせる、という奇術のような策謀を成功させねばならない。
その伏線として、堺幕府方は分裂し、義維ではまとまらない、ということを周知させる必要がある。
無理難題ではあるものの、付け入る隙はあった。かつて、京都人は、三好之長の倨傲を嫌ったが、これは、阿波人の京都支配そのものへの反感も手伝っている。
こたびも、そのケがあった。三好元長が下山城守護代となり、阿波人を郡代にすると、本来、これに庇護を求めるべきところ、寺社や公家衆は、知ってか知らずか、的外れな人間にばかり安堵を求めた。ーー単純に、元長の新たな統治機構が認識できていなかっただけかも知れないが、どうも「京都仕草」というものを感じてしまう。
京都人は、阿波くんだりから毎度押し寄せてくる細川衆を、内心軽蔑していたのではないか。
そうこうしている内に、柳本賢治と元長の対立は尖鋭化した。軍事衝突に敗れた賢治は、義晴派に、流れた。
このあたりに、定頼が、調略を及ぼしていたのかもしれない。もとより、賢治は和睦反対派だったが、それは兄(香西元盛)を殺害した細川髙国を嫌ってのことで、公方に関しては、義維派というより義晴派なのだ。
柳本賢治は、同僚の松井宗信(晴元家臣)とともに、和平を推進する。
だが、ここが、天井だった。賢治は江州公方に接近しているが、髙国憎しの感情がある以上、まだ、わだかまりがある。
そうなのだ。
細川晴元を味方につけるには、永正錯乱以来、両細川の戦いが主眼とする、京兆家の家督を、くれてやる以外にない。
(髙国・・)
かつての仲間が、今や、問題に変わりつつある。
実際、柳本賢治・松井宗信が和睦推進に舵を切った享禄二年(一五二九)六月、定頼は、朽木谷の領主・朽木稙綱に、次の書状を送っている。
『昨日また堺より松井宗信申す旨』と、松井宗信から和睦の申し出があったことを伝え『御料所・諸奉公方知行、いずれも厳重に申し付くべき旨、六郎(晴元)殿申さるる趣候』将軍の御料所、そして、奉公衆の知行に関しては、必ず安堵すると晴元が発言していた、そう記している。
その上で、こう記載しているのだ。
『若し常(常桓、髙国戒名)当谷(朽木谷)へ入御候者の儀は、
『是程上意も申し上げ、出入の者の上(朽木谷)に参る儀を押し留め候て、
『入れ申すべからず』
細川髙国を朽木谷に入れるな、話がまとまらなくなる、と、そう書き記している。
一応は天下人であるはずの髙国を「常」などと呼び捨てにしているあたり、蒲生対い鶴御所宰相と、等持院の戦い前夜に同御所に拾われた髙国の関係性を暗示している。
(あの男には世話になった)
そして、世話になる時間は終わった。
そう冷徹に断ずる、甲賀大明神二男の目の色が目に浮かぶようだ。
髙国を切り捨てる段階に入っている。




