再現・薬子の変
一五三〇年代に入ると、尼子氏は、本願寺証如とも盛んに連絡し、上洛の地盤固めをする。これは、本願寺側の日記にも、たびたび尼子氏の名前が出ていることで確認できる。 しかし、えらい大胆な手を取る。
すでに記述しているが、享禄・天文の乱(一五三一~一五三五)といって、木沢長政を包囲した三好元長を滅ぼすべく、細川晴元が本願寺証如に一向一揆の派遣を要請、ここから、一揆勢が収まらず、奈良興福寺まで「仏敵」に定めて破壊の限りを尽くし、畿内を荒らし回った。室町幕府はこれを鎮圧すべく四苦八苦しており、これと手を結ぶのは相応の危険性もあったのだ。
しかし、三好長慶も義維を上洛させる段(一五五三年)では、本願寺と連絡を取ったように、政局にも容喙するこの大勢力を味方につけるのは、重要だったのだろう。
ともあれ、尼子氏の東征、上洛への情熱は紛れもない。そして、それを黙認する態度を大内氏が示しつづけたのも、事実である。
さてはて享禄四年(一五三一)正月、浅井亮政の高島郡(朽木庄)侵攻が、恐らくこれらのムーブメント、旧義稙派のレコンキスタ(再上洛)ともいうべき流れの一環として、決行される。義晴が葛川─堅田─坂本と逃れる一方、定頼の軍が湖北箕浦で浅井勢を破った。
ちょうどこの頃、義晴が朝廷から、従三位・権大納言に叙されている。
室町幕府が健在である以上、朝廷の動向も重要だ、というのが本稿の主張だが、義晴は、朽木にありながら、朝廷とも連絡し、将軍の権威を補完していた。大永八年(一五二八)八月には、後奈良天皇に上奏し、代始めの改元を提案する。この後奈良天皇、三英傑ともやり合う方仁親王(正親町天皇)の父親だけあってなかなかの巧者で、義維の左馬守(足利将軍家が慣例として就く)叙任を認め、上洛を応援している。彼を取り込む狙いがあったのだろう。義晴は、代始め改元執奏の伏線として、桂川合戦の前年(一五二六)四月に崩御した後柏原天皇一周忌の香典を納めており、しっかり朝廷と連携していた。十六、七の少年の世間智とは思えず、側近や定頼の入れ知恵だろう。ーー義晴は、傀儡の側面もあったが、側近たちも懇切ではあったのだ。
左馬守叙任で好意を見せてやったというのに、堺公方は、朝廷に肩入れする様子がない。果然、後奈良天皇は朽木の義晴を頼り、こうして、天皇の代始めを宣撫する改元「享禄」が成立する。費用負担をしなかった堺公方は、この改元を受け入れず、しばらく「大永」時代のままでいたというから、どこかで見た景色である。改元は時代の主催者を明かし立てるには、重要なのだ。
ちなみに、この八月に、義晴が上洛する予定があったのだが、堺公方との調整が付かず、見送られている。『雖然堺儀不事調歟、御心中御不足事有之、仍又延引也』(鷲尾隆康『二水記』)
右の流れを受けて、朝廷の心を引き寄せた結果、享禄四年(一五三一)義晴が従三位・権大納言に叙されることになったのだろう。義晴は、その後も朝廷との親宜を保ち、阿波公方に対して優位に立ちつづけた。
佐々木氏系図によれば、義晴より一つ上の義実は、従三位、参議、権中納言とされている(参議は太政官の官職で、納言に次ぐ)同従三位で権大納言だった義晴に次ぐポジションであり、リアリティーがある。
義実のこの叙任については『公卿補任』(朝廷の官員録)に記載されていない、と、疑問視されているが、どうもこの記録は、政治的事情で変更が加えられているらしく、任官の日付を遡って記載し、公卿に箔を付けたりしている。より信用度の高い史料と一致しない点もあり、いまいち信用が置けない、というより、誠実さに疑問が残るのだ。
蒲生氏嫡流は、六角義実流から、蒲生高郷流に移行した。これは氏郷の時代であり、彼が東北で大領を得たのは、八幡旗手の〝御所様〟として周囲から・・秀吉から認められていた、ということだろう(非常に失礼なことを言わせてもらうが、蒲生氏郷に、実力だけで九十二万石の王になる器量があるかと言われると・・)
本能寺の変直後の『江源武鑑』にある蒲生氏郷配下の裏切り、観音寺城への放火は、実際は、変に乗じて、当時日野城へ織田一族を護送していた氏郷が、観音寺城を襲撃した、その事実が伝聞で歪められた結果ではないだろうか。
ーーしかし、変の直後に、こうも氏郷が自信にあふれた動きをしている。その後、義実流を没落させた高郷流がスムーズに嫡流として認められた経緯からすると、氏郷の乱は、上位者のお墨付きを受けていて、蒲生対い鶴御所の内紛が本能寺の変の原因だった可能性も高い・・案外、本当に、秀吉が裏で手引きしていたのかもしれない。
話がずれたが、どうも、氏郷の異数の栄達を見ると(そして秀行以後も豊臣や徳川の庇護厚いことをかんがえると)六角義実流は御所様ではなくなった、否定される存在になったとしか思えない。そうすると、本来の御所様というのは、歴史にとって危険因子でしかなくなる。蒲生家は、東北の王になった後、宿痾(シュクア、持病)とも言える内紛に苦しみつづけ「蒲生騒動」と歴史に記される家中の動乱に、結局、氏郷の三代後の忠知で、蒲生家が断絶するまで悩まされることになる。このお家騒動も、本来の御所様に対する、謀反人の御所様、擁立された御所様という立場の弱さがあり、氏郷一族の権威が安定しなかったために長期化した、蒲生家断絶までついてまわったのではないだろうか。南北朝の動乱もそうだし、応仁の乱もそうだが、権威が相対化されていると、乱は収まらない。
話が再三ずれた。要するに、六角義実流は存在ごと否定されたために歴史に残らなかった。『公卿補任』からも記載が削られたが、六角義実が従三位・権中納言に叙されるのは、あり得ないことではない、ということを言いたかったのだ。義晴政権は朝廷のよき外護者であり、堺公方が応えぬ以上、朝廷はこれを厚く遇するだけの理由があった。義晴は皇室に関係する土地の押領を止めるよう内書を送り、その返礼のように、後奈良天皇は、昵懇公家衆や武家の任官を義晴から依頼される、共存共栄が成立していた。その上、義晴を、九代義尚以来将軍家が任官されていなかった「右近衛大将」常設武官の最高職に任命している。本来なら、摂家や清華家が就く官職であり、足利氏がそれらの公家と同格であることを示す要路だった。まこと、義晴と朝廷の関係は蜜月だったのだ。
だが、補足を重ねるが、後奈良天皇の系譜というのは、なかなか、政局である。后に広橋家の娘を二人迎え、後日の日野輝資(てるすけ、広橋流日野宗家当主)の成立を期している。水瀬家(みなせ、羽林家)の娘を養女にしてまで、おのれの一族を后に送り込んでおり、すでに日野内光─晴光とつづいていた大徳寺流日野宗主から当主を奪還しようとする伏線に思える。
他にも実務系官人壬生氏の娘を后にしており、正室が幕府と強いつながりがある観修寺流万里小路家娘であることからも、諸方面と縁組みした、政略そのものの系譜といえる。 後奈良天皇は、慈悲深く、信心厚い人物だったというが、一面ではおのれの系図をガチガチに政局で固めており、後の正親町天皇時代に備えていたかのような観がある。
後奈良天皇なら、幕府の要請で、六角義実に従三位・参議、権中納言の官職を授けるのも、ないことではなさそうだ。江州公方の後ろ盾たる六角氏、それも、当代の義晴と兄同然の立場とあれば、義維に左馬守をくれてやったように、懐柔に動くこともかんがえられる。そもそも、父親の後柏原天皇同様、資金難で即位式を行えていない。この方面から働きかければ、義実の任官は十分可能だ。
【『鹿苑日録』天文五年(一五三六)五月十四日条に「江州宰相」が登場し、天文八年(一五三九)五月十九日条と二十日条に宰相上洛と下向の記事がある。この記事がある『鹿苑日録』十六巻表紙の頭書では、この宰相のことを「相公」と記している。「宰相」も「相公」も参議の唐名だが、『鹿苑日録』では「相公」は将軍を意味する。同書の用語法に従えば、「江州宰相」は将軍もしくは将軍連枝である。しかし当時、近江逃亡中の足利氏はいない。一般に「江州」が近江守護佐々木六角氏を指す言葉であることを考え合わせれば、彼が系図上の「六角義実」である。沙々貴神社所蔵佐々木系図では、「義実」は足利義澄の猶子であり従三位参議であったと記しており、『鹿苑日録』の記事と符合する。これで、資料に「六角義実」は実在しないという従来の学説は否定される。】 (ブログ『佐々木哲学校』江州宰相義久〈義実〉の項)
義晴が従三位権大納言に叙されたのが、享禄四年(一五三一)正月だ。
『鹿苑日録』(京都鹿苑院の歴代僧録の日記)によれば、天文五年(一五三六)五月には、江州の将軍連枝が宰相、参議の唐名で呼ばれている。
史実と、偽書認定された歴史とが、非常にリアリティーのある時系列で展開している。 『江源武鑑』だけではないのだ。その他の文献にも、義実の実在は示唆されている。
歴史から抹消されても、その痕跡すべてを消し去ることはできない。
本稿では、この時期、蒲生対い鶴御所は御所様を戴き、八幡神族の首魁・日野家が君臨する室町幕府を乗っ取ろうとしていた、そう唱えている。藤原北家真夏流日野家は、藤原真夏と、嫡子・濱雄に嫁いでいる、息長氏流三国氏娘、そして息長氏娘二代を起源に、秦氏と武家の盟主、八秦の盟主として君臨した。
藤原真夏は、薬子の変で、長岡京造営使・藤原種継(母親が秦朝元娘)の娘・薬子と、彼女を寵した平城上皇陣営に付き、嵯峨天皇に対抗した。この政争で、おのれの弟・藤原冬嗣が味方する嵯峨天皇陣営に敗れ、真夏流は不遇の時代に入る。
つまり、平城上皇、平城天皇こそが、藤原真夏が、敗北の底で、秦氏の盟主、その始祖になる契機なのだ。藤原種継からの縁をかんがえれば、五十一代平城天皇の父親・五十代桓武天皇も、そうだ。自身が土師氏に連なる母親を持ち、渡来人系・秦氏系の天皇であり、藤原種継を遷都で重用し、真夏流が八幡盟主に担ぎ出される伏線となった、といえる。
ところで、この平城天皇や桓武天皇というのは、天皇が死後贈られる諡号である。生前の実績などを考慮して与えられる。
平城天皇は、かつての奈良の都、平城京に由来しており、この地に都を戻そうとした。そのことが、嵯峨天皇との決裂につながる。
だから、別称は奈良帝。
後奈良天皇の諡号は、この奈良帝に由来する。後の世の平城天皇。
そして、後奈良天皇の父親、先代の後柏原天皇は、桓武天皇の別称「柏原帝」に由来する。
後柏原天皇─後奈良天皇
この二代は、後の世の桓武天皇─平城天皇という意味なのだ。
蒲生対い鶴御所が目指すのは、藤原北家真夏流に替わり、幕政に関与する闇将軍になること。
だから、真夏流が武家の盟主になる契機となった、桓武─平城親子に即した
後柏原─後奈良という諡号を、二人の天皇親子に贈ったのではないか。
じじつ、後柏原天皇は、おのれの即位式をタネに、播磨から呼び出された亀王丸を次期将軍と認め、その画期となる改元を認めている。
髙国政権、蒲生対い鶴御所が擁する「足利義晴」成立の立役者なのだ。
そして後奈良天皇の代に、朝廷は彼に右近衛大将の官職を授け、足利家の正統と認めた。天文三年(一五三四)六月八日、義晴は慶寿院(近衛尚通娘)と結婚。
ついに、将軍家御台所から日野氏を追放する。
いかにも秦氏らしいといえば秦氏らしい、女系に立脚したクーデター。
義晴(妻近衛尚通娘)義輝(妻近衛稙家娘)
とつづいた栄光の政略婚クーデターの勝者、蒲生対い鶴御所が立てた二人の王は、義輝が三好政権と連合することで、最盛期を迎え、室町幕府の威権を復興させる曙光になった。
だが、周知の通り、永禄の変(一五六五年五月十九日)で三好三人衆に背かれ、義輝は討たれた(誤解されているが、永禄の変に参加したのは松永久秀ではなく息子の義久だ)
蒲生対い鶴御所の栄光の歴史は、ここでいったん幕となる。
後奈良天皇が没したのは、弘治三年(一五五七)であり、蒲生対い鶴御所は、最盛期を迎えようとしていた。
だから、知仁天皇に後奈良天皇と追号し、後の世の桓武─平城親子を再現
薬子の変で八秦の盟主となった藤原北家真夏流に替わり
六角義実流が八秦の盟主になった。
その画期を再現しようとしたのではないだろうか。
六角承禎も、天文二十一年(一五五一)正月の和睦の際に、三好政権に蒲生氏の子供を人質にやり、蒲生対い鶴御所の野心を追うのを諦めたそぶりをしているが、その後、また、公方は長慶と物別れになり、父親と同じ因縁の地、朽木谷に御所を置くのだ。
首をひねりながら、知仁天皇の追号を「後奈良」にすべく執奏する承禎の姿が目に浮かぶ。
栄光の影で、こういうひょうげた実情が添えられるのも、人間世界である。




