1530s~尼子の時代~
さて、一五三〇年代に入った。この期間、中国では、注目に値する動きが起こっている。 尼子氏が、上洛を顕在化させた。
まず、享禄元年(一五二九)十二月二十日、大内義興が没している。旧義稙派、義維岳父として、畿内ミステリーのキーマンだった男が、いなくなった。とはいえ、その遺策は健在だっただろう。義維を中心に、旧義稙派西国勢で、京都を圧する・・
(お亡くなりになられたか、六郎〈義興〉殿)
あくまで名前上のことだが、この六郎というのも、晴元に共通している。澄元の代から受け継いでいる名前だから、関係はないと思うが。
義興の嫡子・義隆の幼名は亀童丸・・これも、かんがえると深みにはまる。
さすが大内氏、というところか。
享禄三年(一五三〇)尼子氏の内部で反乱が起こる。尼子経久の三男・塩冶興久が、出雲大社・鰐淵寺・三沢氏(木曽義長末裔、為義流八幡神族)多賀氏(佐々木源氏、秀郷流、為憲流長野氏など諸説あり、道誉の時代からの京極氏被官)さらに備後の山内氏(秀郷流)と連合し、反尼子の旗幟を鮮明にした。面子を見るだに、スクロールアウト同盟で骨のありそうな反乱だ。[しかし、塩冶氏というのは懐かしい。後醍醐天皇の隠岐脱出に骨折りした一族だ]
大内氏は、この塩冶興久から、救援を要請された。すでに、尼子経久は、安芸武田氏と結んで大内氏と抗争しており、さらに興久は義興から偏諱を授かっている。援助を引き出せると踏んだのだろう。
しかし、この要請に対する大内氏の態度は、煮え切らなかった。大内氏は、消極的にだが、尼子氏を支持、尼子氏と和睦する形で、彼を後押しするのだ。これは奇妙なことで、すでに、一五二〇年代後半、尼子氏は、大内氏・山名氏という中国の古豪ににらまれ、絶体絶命の状態だったのだ。
あと一手で、尼子氏に、雲州の狼と呼ばれた経久にとどめを刺すことができる。絶好の機会に舞い込んだ、塩冶興久からの救援要請を、大内氏は、黙殺した。
どうも、義興の遺策、旧義稙派による西国勢の巻き返しが、活きていたのではないか。将軍義晴の隠れなき側近である六角氏に圧力をかけるには、政敵である同族・京極氏─尼子氏のラインで締め上げるのが一番だ。その指針に沿う時、大内氏は、より大きな政局に従い、仇敵の最期を見送るしかなかったのではないだろうか。ーーどうも、大内義隆が、大寧寺の変の前日、浮かない顔をしていた事由が、ここにもありそうである。義隆は、蝶よ花よと育てられたが、十五歳からは尼子氏退治に同行しており、父の遺策に従わざるを得ず、それでいて、尼子は不倶戴天という難しい立場だった。
大内氏の黙過の下、尼子経久は勢力を拡大し、天文三年(一五三四)に塩冶興久の乱を鎮圧、おのれの三男の首級を挙げる。さらに美作、備前、と、勢力を東へ伸長させていくのだ。
十一ヶ国太守とも詠われた経久の武勲は、じつは、西国勢の阿州公方担ぎが背景にあった、政局なのではないか。作者はそうかんがえている。伊勢新九郎盛時の伊豆や相模の切り取りもそうだが、案外に室町幕府の権威や秩序は健在で、その枠内で諸大名は進退し、下剋上の多くも、じつは中央政局が波及した結果だとされている。尼子経久など、北条早雲に並び、下剋上の奸雄とされている人物だ。彼もまた、下剋上と言われながら、それは歴史学の研究が及んでいなかっただけで、室町幕府の興廃に沿っただけではなかったのではないか。
天文六年(一五三七)に尼子経久は、家督を嫡孫・晴久へ譲っている。この晴久は、大友氏と結んで反大内包囲網に参加、さらに、石見銀山を奪取している。大内氏にとって、看過できない大敵だったのだが、なお、一五四〇年に入るまで、大内氏の微温的態度は継続されるのだ。それをいいことに、晴久は、ついに播磨国守護・赤松政祐にすら敵対し、これを大いに破る。
播磨にまで、尼子氏の爪牙は及んでいたのだ。一五三〇年代・・六角氏にとって、悪夢の時代である。




