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曙光染む

 三好元長が帰国した事由も、和睦が不首尾だったためとされる。前線、京都には、それこそ、柳本賢治や三好政長、元長といった将が詰めているが、和睦交渉は、後方の堺にいる晴元やその側近衆が決定する。彼らが肯(がえ)んじなかったのは、和平条件に、晴元と髙国の和睦や、晴元と髙国の養子縁組が含まれていたためではないかといわれている。これは十分可能性のあることで、つまるところ、両細川の乱というのは、永正の錯乱(一五〇七年、細川政元暗殺に端を発する家督争い)以来、つまり、京兆家の家督を誰が継ぐのか、という政争だった。髙国が晴元を養子に迎え、その上で、相続させてやるのが八方丸く収まるやり方だろう。元長もこの路線で和睦を進めていたが、髙国が丹波波多野氏始め各方面に恨みを買っていて、それでは納得しないものたちが出てくる。そしてここに、義晴と義維のどちらを将軍とするのか、という問題が関わってくると、ますます和平は紛糾する。元長は、京兆家の一本化をかんがえている点で、六角定頼と共闘できそうだが、一方で、将軍としては義維を推しており、この点では譲らない。この時期、晴元の側近衆には、木沢長政もいるのだ。相手が西国勢─義稙派との決戦を倦厭していると察すると、徹底的にねじ込んできそうな人物である。

 ついに、五月にまでずれ込んだ。鷲尾隆康『二水記』五月二日の条。

 『風聞云(噂で聞くところ)今度堺和睦事終以不事調(堺方との和睦が不調で終わった)依是摂津国衆悉以与敵同意(これによって、摂津の国人衆は悉く敵方と同心し)在京之衆背道永(髙国の法号)多分下国(在京していた摂津衆は髙国に背き、下国してしまった)』

和睦が一向に進まないことに業を煮やした摂津衆が、四国勢に応じて、下国してしまったという。開戦から半年が経過しているのだ。兵たちも情勢の動かないにらみ合いに疲れ、脱落していく。『道永運命事盡歟(道永の命運も尽きる歟)』と、鷲尾隆康は記している。

 だが一方で、同日の記載には、定頼ら御所方の必死の工作が反映されているように思われる箇所もある。

 『四国衆以当代(足利義晴)崇敬可申之由治定云々』四国衆が当代の将軍、義晴を「崇敬」すると申した、つまり、主君と認めると言っていた、そういう噂があったというのだ。 『「しかし、晴元は、阿波の公方を戴いておる」

 「不幸中の幸い、あれとの縁談はまだ破談になってはおりませぬ。ーー此度の堺公方の入京が延び延びになったことで、諸侯は義維めの信を問うております・・このまま、義維の信用を失わせ、あれを江州公方(義晴)に転ぶよう調略いたしまする」』

 宰相のギリギリの交渉が、実を結びつつある。

 

 『二水記』五月十四日の条。

 『巳刻道永・右馬守(細川尹賢)没落』

 ついに、道永こと髙国と、丹波波多野氏との火種になった尹賢が京を出た。摂津衆が堺方に付いたことで、いよいよ立場がなくなったのだろう。

 しかし、それなら、この軍(いくさ)はいったいぜんたい誰の軍なのだ。細川髙国と義晴の連合軍で、京を奪還すべく押し寄せたのではなかったのか。

 髙国は去った。

 敵方の主立った将もあらかた去った。晴元も義維も上洛しない。

 虚仮の軍勢が対峙している、なんとも滑稽な形になった。ちなみに、こうして逐電した髙国と尹賢も、近江へ逃れているのだから、対い鶴御所の手の平の上である。

 『二水記』同日の条。

 『去年出張数万人、如夢、可歎々々(嘆くべき嘆くべき)』また門外漢の公家に、一体どういう作戦なのだ、と、呆れられている。『於東寺決其勝負之処、和睦之儀出来、仍不能合戦(本来東寺で勝負を決すべき処、和睦の儀が出来し、そのため、合戦ができなくなってしまった)

 『今以如此ムサヽヽト(むざむざと)落居了、不足言事也(言うにたらざること、もってのほかのことだ)道永心中無興所察也(道永には物事の興廃を察する力がないのだろう)』

こうしてむざむざと没落するなど、言葉では表せないほどひどい醜態だ。ーーまあ、公家衆も、目前で軍勢同士が対峙していれば、武家がましいことも口にするだろう。

 ところで「道永心中無興所察也」は、ちょっと、訳が難しい箇所なのだが、ミネルヴァ書房で『六角定頼:武門の棟梁、天下を平定す』を出された村井裕樹氏は、別の訳を当てられている。

 じつは、右の『於東寺決其勝負之処~』の段は、その直前に、もう一つ別の段が入る。

 『抑(そもそも)今度和睦事、六角少弼(弾正少弼、六角定頼)相調(相調える)

 『雖然終以不事調(だというのに、不調に終わってしまった)

 『已以道永失面目了(すでに道永は面目を失っており)言語道断之儀也』

 なんと、鷲尾隆康の矛先が、定頼に向くのだ。

 今回の和睦は、六角定頼が調停していたものではないか。

 それが不調に終わってしまったために、髙国は面目を失った。言語道断だ。

 本稿の推測と同じことが、少なくとも当時の京都で風聞としてささやかされていたのだ。和議を推し進めていたのは、髙国ではなく定頼だった。その上で、つづく段を訳すると、こうなる。

 『於東寺決其勝負之処、和睦之儀出来、仍不能合戦(本来なら髙国は東寺で決戦する処、そこに和睦の儀が、定頼によって出来させられ、合戦を取ることが不可能になった)

 『今以如此ムサヽヽト落居了、不足言事也、道永心中無興所察也(そのためこのような決着となり、面目を失い髙国が没落するようになった、言葉にできないほどひどい事態であり、髙国の心中は察するに不本意であっただろう)』

 ・・ーーーーー

 

しかし『二水記』にこうある一方、六角定頼のこのときの活動は、現代でもよく分かっていないのだ。和睦の段に、表立って名前が出ることもなかった。

 陰謀論ながら、水面下で京極尼子氏を先頭に、西国勢と対峙している、蒲生対い鶴御所の宰相が思い浮かぶ。

 少なくとも「四国衆以当代(足利義晴)崇敬可申之由治定云々」ここまで言わせるところにまで、こぎ着けたのだ。

 

 

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