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つばぜり合い

 そして、この政治的アピールは、実際のメリットを引き出した。能登の畠山義総は、銭十万疋(一千貫)を送って義晴を支援し、長野氏に牽制されている伊勢国司・北畠晴具は、馬や物資を送って近江方を支援

 これが、軍事面にも顕在化して、越前朝倉氏は老将・宗滴(満五十四歳)らに一万の兵を付けて派遣、等持院の戦い以来の同盟者ならではだ。

 さらに、六角氏、細川尹賢らの軍を合わせ、義晴─髙国軍は、二万(一説には五万)もの大軍となって、京都奪還へと動き出す。

 大永七年(一五二七)十月十三日、入京。

 堺公方の軍勢を洛中から追い、京都を取り戻す。[つくづく京都は奪われるに易く守るに難い]

 幕府軍は東寺を本陣として、洛外に退いた堺公方軍へにらみを利かせる。

 十月十九日、四国勢は、下京西七条「川勝寺」にて、幕府軍を迎撃、かえって、本陣である東寺を衝いた。だが、朝倉勢がこれを撃退、一進一退の攻防がつづく。

 やがて摂津から三好元長が、丹波からは柳本賢治(丹波波多野氏)が上洛するが、これは不思議と戦いにならなかった。さらに、越前から前波氏(まえば氏、朝倉氏重臣)が三千の兵とともに着陣、四国と江州勢は、膠着状態に陥る。

 さて、ここで、またしてもミステリーだ。

 どうも、東寺に集まった幕府軍の方が軍勢では圧倒していたようなのだが、不思議と、堺公方と決着を付けようとしない。

 『可謂武勇之専一者歟、抑(一体)御陣雖被相寄(いわゆる武勇に秀でたものが、一体御陣にはおらぬのだろうか)

 『至今日及合戦、得難其意躰也(今日に及ぶ合戦で、その意図を未だ果たせていない)

 『各談合計武略之由有沙汰、雖然敵方為無勢者(各々話し合い、武略の策を練るのなら、なぜ敵方が無勢であるというのに)

 『何急〃不決勝負哉、不審者也(急いで勝負を決さぬのか、不審である)』  

 鷲尾隆康『二水記』十一月三日条。

 京都にいる隆康の目にも、幕府軍の優勢は明らかだったようだ。「武勇之専一者歟、抑御陣雖被相寄」とあるが、冗談ではない。すでに長年加賀一向一揆を押さえ、近年は浅井亮政の退治にも乗り出した宗滴がいるのだ。

 しかしこれは、桂川合戦に於いて、義晴が飾られてあるべき将軍初陣を、鷹狩りの体を装い「密々之儀」にした機微に通じるのではないか。

『陪臣相手だから表立って将軍自身が出陣するわけにはいかない、というのは、少々苦しい解釈に思える。

 それ以上に、三好軍の背後に、大内氏、山名氏、さらには旧義稙派という幕府でもそうそうたるウェイトを占める重鎮達がいた。彼らとの対立を表面化するわけにはいかず、将軍の出陣は偽装され、戦場でも後方で拱手傍観するのに留まった、という可能性はないだろうか。』

西国の巨大勢力、義稙が放浪する足跡に沿って結ばれた同盟。

 堺公方を盟主とした、いわば西軍との対立が顕在化することを恐れたのではないか。

 (堺公方を、京都からのぞく。旧義稙派に、京都に旗を立てることはできない、公方はただ、江州様御一人だと認めさせる)

 それが、定頼や義実が設定していたラインなのではないか。近衛家を含めた蒲生対い鶴御所陣営としても、また政局が不安定化し、義維が義晴と同等の価値を帯びる局面は、冗談ではないのだ。

 (すでに公方との縁談は始まっているのだぞ!! また法住院殿義澄と恵林院殿義稙の時代に戻れというのか!!)

 あれは媒酌人達にとって悪夢だっただろう。

 どのみち、ここで堺公方を敗退させたところで、堺、そこから阿波へ撤退するだけであろう。

 そうやって刺激すれば、それこそ、京極尼子氏をともなって、瀬戸内海を渡り上洛を目指す策に着手しかねない・・それは、近江六角氏の窮地を意味する!!

 勝てる。

 勝ってはならない。

 定頼にとって、合戦の頭上で政略をくり広げる、苦しい展開だった。

 

 しかし苦しいのは四国勢にとっても同じで、合戦に及べば恐らく敗退する。勝利したとしても、現状、京の人間が義維を公方と認めるかどうか、はなはだ怪しい・・四国勢の背後に、義稙時代を担った大内義興がいたのなら

 (結句、諸人の納得する公方が単独でおらねば、遺恨は必ずや吹き出す)

 そうかんがえただろう。義興自身が立役者となった義稙の京都奪還が、まさにそれだ。

 強引にことを運び、首尾良く京都を得たとしても、それで公方が入京しなかったり、認められなかったりしたら、ただでさえ乏しい堺公方の信用度が下落する。

 

 双方手詰まりの中、四国勢の援軍としてやって来た丹波勢が上京を進軍し、鷲尾隆康らを震撼させ、さらに牢人衆が公家の屋敷や商家に押し入り、家財を強奪する事件が起こる『今日物騒事相談』

 にらみ合いがつづく中、治安の悪化した京都で小競り合いが起こり、畠山義堯配下の遊佐氏が討ち取られ、波多野勢に数十名の戦死者が出る。

 (阿呆らしい。話に聞く応仁の大乱が再来ぞ)

 朝倉宗滴は、歯噛みしていただろう。このとんでもなく長生きの武将とて、さすがに大乱の後に生まれているが、あれも、大軍同士がにらみ合い、決着を付けぬまま、京の治安が悪化し、小競り合いのみ散発する、という情勢だったらしい。

 ーーしかし、やりきれぬのは、どう考えても、一気呵成に決着を付ける・・幕府軍が勝利するだけの兵力があることだ!!

 鷲尾隆康『二水記』十二月廿九日条。

 『御陣儀已以雖至今日不能落居、勝事之儀也、只時刻未到之儀故歟(将軍の御陣では、今日に至るといえども、未だ勝ちを決さない、まだその時が訪れないということだろうか)

 御陣中諸勢如風聞者十万人余云々、超過之事也、敵方纔二万許可有云々(御陣の軍勢は風聞にきく限り、十万人、それを超えるともいう、敵方はわずか二万ばかりかという)

 以之思之何不得其理哉、不可思議之躰也(思うになぜ大軍で決着をつけようとしないのか、不思議のことである)』

 門外漢の公家にさえ、こう首をひねられている。義維が堺から動けなかった状況からも、信用度のある幕府軍が圧倒的多勢だったのは間違いないだろう。

 なのに、戦線が膠着している。

 それどころではない。

 『結句或説云、有和睦之沙汰云々、不足言事也』

 つまるところ或る説に云う、和睦しようとしているのだと。

 

 「不足言事也」言うに足らず、というのは、言葉で言い表せないほどひどい状態、わざわざ議論したり、問題にする価値もないという意味だ。

 

 そんなバカなことがあってたまるか、という鷲尾隆康の慨嘆である。

 

 戦うに戦えない理由が幕府軍にはあった。そうとしか思えない。



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