水蒸気の国、六角定頼の闘い
ーー今さらだが、義実、義晴、義維は同世代なのだ。義晴と義維の母は「武衛娘」という人物で、これは、六角高頼娘なのだと佐々木哲氏は主張されている。義実は六角氏綱と義澄妹の間に生まれている。そして、三人とも、生まれた場所は近江だ。義晴は義澄の実子と見られているものの、義維は、その点あいまい、義実は実在したかどうかさえあいまい・・どうも、全員が、近江に端を発しているということで、同一戦略の線上にあるようだ。
義維が義澄の子かどうかは分からないが、そう名乗っていた人物がいたのは間違いない。このことから、義実という人物も秘密裏に存在したのではないか、と、敷衍できる気もするが、きちんと言葉にできない。
ただ、現実も、案外、正体の分からぬものが大手を振って闊歩している。魍魎のごとく、鵺のように、ひょうすべそっくりに、だ。
さて、四国勢は堺に留まり、京は真空地帯になる。そのまま、大永七年(一五二七)六月になっても入京せずにいた。
しかし、それでも、桂川合戦の勝者に、趨勢はある程度傾いていく。七月、義維は従五位下左馬守に任じられる。この左馬守というのは、足利直義(尊氏実弟)をはじめ、鎌倉公方、古河公方、さらには足利義視などが任じられていた。足利将軍家の、庶流というのか、亜流というのか、そのあたりが任じられる官職であり「今京都に公方と申すは、誰人の息共、諸人不知之」に対して、少しだけお墨付きを与えた形になる。
なお、堺公方は入京しようとはしなかった。
(これなら行けるか)
地勢さえ把握せぬ中国ではなく、おのが庭先である畿内を見据え、蒲生対い鶴御所の宰相たる定頼は、慎重に値踏みしただろう。
「出雲守護」という幕府の巨大な公認を得た尼子氏と、それを含んだ旧義稙陣営に対し、ここから、丁々発止の、だが苦しい戦いを強いられることになる。
[しかし、ここに来て、義稙─大内義興らが鈍く大きく存在感を発揮しているのは、なにか、作者には嬉しい。義稙は、京を出奔したりして見苦しい行動も取ったが、毒杯を仰ぎ、刺客と斬り合い、各地を放浪して帰京を成し遂げ、まるで貴族流浪譚の主人公さながらの「冒険」をくり広げている、非常に分かりやすい意味で英雄である。もう少し世間に知られるべき人生を送った人物だと思うのだ]
堺公方は、それ以上の動きは見せない。これに対して、義晴は、いい動きをした。この間、自身を成立させた後柏原天皇の一周忌につき香典を納め、かつ昵懇公家衆(烏丸、日野、広橋、飛鳥井、観修寺、冷泉、高倉、正親町三条家)との交誼を密にした。やはり、日野流(日野、広橋、烏丸)が目立つが、日野当主が大徳寺系の晴光なのは、大きな武器になっただろう。
その上で、諸国の武家にも連絡を取り、公武に渡って存在感を発揮した。
(堺の紛い物といっしょにされてはこまる)という政治的メッセージを発信した。
ーー室町時代を見直す上で、これは重要だと思うのだが、公家は、朝廷や天皇家は、大きなファクターだった。思っていた以上に室町幕府は健在で、守護や守護代も、それを簒奪せんとした下剋上の大名も、国人衆も、その意向と命令に揺り動かされていたのだ。
で、ある以上、彼らの権威装置であり、バックボーンである公家社会の動向も、重大な意味を持つ。
ごくごく大雑把に言うなら、天皇家を頂点にした官僚社会であり、武家が武官で、公家が文官、征夷大将軍が官房長官ほどのクラスに当たろうか。官房長官が内閣総理大臣クラスである摂政関白にも大きな支配力を及ぼすものの、秩序の枠組みとしては、上下関係は揺るがない。
面白いのは(また、そのおかげで実態が見えにくくなっているが)幕府も公家も、台所事情は非常に苦しく、所領も財物も乏しかった。
にもかかわらず、自分よりも強大な守護や国人大名らに下知できたのは、日本全体が、この体制を合意承認していたためだろう。実際、応仁の乱以来、どうしようもない政争のグダグダで、中央が揺るがされ、地方の割拠を許してしまっているが、諸大名からノーを突きつけられるほどの落ち度はないのだ。六代義教「万人恐怖」時代に暴君として君臨し、挙げ句赤松氏に討ち取られる落ち度があり、そのあたりからケチがつき始めてはいる。
しかし、この幕末時代、室町幕府が亡びるほどの原因は見当たらなかった。
ーー少し、主舞台から離れ、巨視的になる。
先日、講談社『現代ビジネス』のネット記事に『鎌倉幕府滅亡の理由は実は「いまだに不明」だった…その前夜から振り返れば見えてくるもの』という文書が掲載された。執筆者の谷口雄太氏は、こう述べている。
『実際、関西の幕府軍を見渡してみますと、京都には名越・足利の援軍、六波羅を城塞化して頑強に防衛していた探題軍、南には楠木正成のよる河内国金剛山千早城を包囲していた大軍がいました。さらに関東には鎌倉の本隊もいるわけで、この時点で鎌倉幕府の将来は明るいものだったと見られるのです。現代の研究者も、幕府は最盛期に突如崩壊し(筧雅博『蒙古襲来と徳政令』)、滅亡の理由は不明であるといいます((呉座勇一『戦争の日本中世史』、谷口雄太「足利氏はなぜ特別な存在になれたのか」『歴史地理教育』九三一、木下竜馬「滅亡は必然か?偶然か?」山田徹他『鎌倉幕府と室町幕府』))。』
それは確かに不安要素はあった。当時の相続様式による田地の細分化、貨幣経済への対応、元寇の恩賞未払い・・しかし、それら社会への不満が、果たして、王朝の世に結びつく後醍醐天皇の倒幕を後押しするという極論にたどり着くのか、はなはだ疑問である(作者は、この二つの橋渡しとして、北条得宗と累代婚姻関係を結んでいた源義国流八幡神族・足利家が立ったのだとかんがえている)
これとよく似た状況が、室町幕末にも発生した。諸大名、国人衆、みな、政情不安や過度な徴税に抗議し、上洛要請には辞を低くして応じなかった。それでも「倒幕してやろう、室町幕府を倒してやろう」などという極端なことをかんがえるものは現れなかった。信長でさえ、周知の通り、義昭を戴く路線で進み、義昭と対立してからはこれを圧倒しつつあったものの、そこから先の展望はなにもなかった・・少なくとも、可視的なところへ意思表明していなかった。
室町幕府の継続は、既定路線だったのだ。なのに、一五八八年に、義昭は関白豊臣秀吉とともに参内し、征夷大将軍を辞任している。別段、秀吉が、目を吊り上げて室町幕府を絶やしてやろうとしていた形跡もない。
融けるように消え去っているのだ。
これは、戊辰戦争という衝突を挟んだものの、江戸幕府も同様だ。幕府の外交や政治、それらの改革は、少なくとも最良を目指しつづけたものであり、諸侯に「攘夷」を標榜するものは少数派(攘夷感情そのものはあっただろうが)で、そして、本稿でも主張したとおり「幕府」という江戸時代そのもののイデオロギーを否定する「武力倒幕」など、当の薩摩藩さえ、藩士に決を採った結果、反対者多数で否定された(慶応三年九月末時点。久光は藩主忠義と連名で倒幕を否定する通達を出さねばならなかった。鳥羽伏見の戦いが翌年正月三日から六日だ)
つまり、幕府というのは、いつも、特段の落ち度も原因も見つからないまま、いつのまにか新政権に切り替わっているのだ。堅固な支持基盤を保持したまま、急にパタリと終焉を迎える。
これは、本稿の水蒸気説、温暖湿潤の気候が体表感覚として涵養する一体感に照らし合わせれば、当然と言えば当然で、幕府が内部でしようもない抗争に明け暮れていても、自浄作用を待って、周囲の勢力は牽制しつつも、環視するのだ。そこで、是非をハッキリ断定しようとするような巨大な権力は、それ自体が不協和音として扱われ、倒幕の一瞬のみ採用されても、後はただちに解体されていく。明治政府すら、内部分裂と西南戦争により、対内的な武威を解消した。後は、官民一体の西欧化だ。それさえ、江戸幕府が進めていた近代化政策と、明治政府が推し進めたそれを維新の前後に列挙していくと、やっていることにそう違いはない。議会制民主主義すら、江戸幕府は何度も検討を重ねているのだ。徳川慶喜は、天皇を象徴的君主の位置に置こうとしたが、これに対して明治政府は絶対君主に据えた・・まあ、天皇家自体がその権限を振るわなかったために、結局、立憲君主制とさほど変わらぬ状態に落ち着いた。
つまり、日本の政権は、よく分からないうちに没落し、いつのまにか新たらしいものにすげ変わっているのだ。これは、既存政権が、すでに、水蒸気説の内に、上下、貴庶の一体感の中成立し、推移していることから、既存政権は民衆の肯定の中で、自発的に、時代に対して最適化するよう、自然と努力する・・のほほんとした特権階級に甘んじることを自ら禁止するようにできているのだ。平安時代の王朝から幕府への切り替わり、というより、関東をやっとで武士政権の自治へこぎ着けただけだが、それさえ、藤原氏の摂関政治から院政による天皇家の政権奪還・・為政への意志の中で、王朝側の致命的な失政などないまま、自然に政争の中で武士権力がふくれ上がる形で成し遂げられている。既存政権は、時代に適応すべく足掻くが、それでもどうようしようもないということになると、いつの間にか、ある時は後醍醐天皇の討幕運動、ある時は関白秀吉の日本統一、ある時は西郷隆盛が号令した維新戦争、看板は様々ながら、新たな奔流が、死に水に活路を開かせるように、濁っていた水面を押し流し、清流へ変えてしまう。
もとより、上下が水蒸気で一体化している日本では、大陸のような峻烈な乖離や暴政が行われる余地がなく、水蒸気のもやの中で、なんとなく時代に合わなかったものが立ち消え、新たな時代にそぐうカラーリングのものが成立する。
言うならば、日本の政治交代というのは、どれだけ劇的なドラマを挟んでも、看板の付け換え程度の実質しかないのだ。重大な決定は、それまでの経緯で自然推移的に完了している。しかし、一方で、所詮看板の付け換えだから、本質的な解決にはならず、足利政権は南北朝時代の泥沼にはまり込み、豊臣政権は大勢力を各地に残したため天下を失い、維新政府は近代化のために幕府の人材も大量に採用し、西洋化に血道を上げる、という刻苦がつづく。やってもやらなくても苦労するのは同じだ。
そういう日本的背景もあり、大名も国人も、まだまだ室町幕府を見捨ててはいない。自然消滅するまで見捨てたりはしない・・それはそれで、そうなったときにさほど惜しむものもいなかったのが、また奇観であり、日本史の常でもある。
その室町幕府(武家)を含んだ枠組みである公家もまた、巨大な存在感を与え、影響力を投じる主体であり、義晴は、公武ともに結びつきを強化していた。じつにいい判断であり、この間、堺公方と江州公方(義晴)は水を開けていったと言ってもいい。なんといっても、公家は京都の主権者であり、彼らにとって公方とは足利義晴であると印象づけることが、入京できない義維への圧力になる。
一方で、御内書を積極的に発行し、諸大名への軍勢催促をした。播磨の赤松義村、因幡からの侵攻に脅かされる但馬・山名誠豊、越前の朝倉孝景、美濃の土岐頼芸・・蒲生対い鶴御所の伝統的同盟者にも、きちんと声かけしている。豊後の大友義鑑に連絡したのは、大内義興への圧力であろう。さらに、四国勢の足下、摂津や阿波の国人にも軍勢を催促している。
(未だ入京すらままならぬようだが、その方らは、本気で義維とやらを戴くつもりなのか?)
この巨大な問いかけを、諸方へ発していたと言える。足利義晴・・満十六歳だ。内外から堺公方へ圧力をかける政断は、蒲生郡武佐にいる義晴の後ろ盾、定頼の助言あってのものではないだろうか。
六角義実も、足利義晴も、この頼りになる宰相に賭けていたのではないだろうか。
(足利義維は張り子の虎と見た・・それなら、覆しうる)
義晴の御内書は、甲斐の武田信虎にも届き、諏訪氏、木曽氏、上杉氏らに、彼の上洛を支援するよう要請している。但馬の山名誠豊を脅かす因幡山名豊治(義稙室の兄)にも和睦を命じ、さらに琉球の沖永良部島領主にまで連絡をしている(単に存在感のアピールだろう)
義維が有効な動きができないなか、日本全国に政治の網の目を張りめぐらせていた。




