足利ミステリアス
桂川原から撤退した義晴は、まずは近江坂本へ、そこから蒲生郡武佐の長光寺に入った。蒲生対い鶴御所の懐に入ったわけだが、六角定頼の消極的姿勢を咎める意図だとすれば、これは王手である。詰みではないものの、定頼は苦しかっただろう。御所様を規定することで、定頼は黒幕的立場から、よほど中間管理職に近くなっている。
『その治世中、一貫して足利将軍家の庇護者として行動し、京を追われた足利義晴を領国近江に保護し、大永6年(1526年)には浅井亮政退治を青木社に祈願するなどの行動が見える。』 (Wikipedia:六角義実)
御所様は、六角義実の代である。浅井亮政の退治を祈願しているあたり、颶風のように北近江を席巻していたこの猛将の活動と、それを気に病む義実の心情を推し量ることができる。
だから、当主定頼が、尼子氏を含む西国勢の上洛を警戒し、桂川に大兵を出さなかったことを、とがめることはできなかっただろう。京極氏の勢力は、義実の痛覚にものしかかっている。
御所様とて、六角家の特殊な家系でしかない。外交の際には存在感を発揮するだろうが、元来同族であり、室町期を通じて目上に位置してきた京極氏に対しては、互角以上の存在ではない。義澄と義稙の子、というのは大した肩書きだが、表沙汰にはできないのだ。[まあ、ことが成り、八幡旗手が幕府の闇将軍に収まれば、公表する段取りだったのだろう。その際、六角氏は将軍家一族という証左にするために、沙沙貴神社に六角義実流を嫡流とする系図を奉納していたものと思われる]
(すべて、水面下で、か・・ーー)
義実は、定頼に言った。「実際のところ、尼子の勢はどうなのだ? 本当に上洛を果たしそうなのか?」
「なにぶん、中国のことなれば・・」困惑顔を浮かべただろう。「すでに、幕府は尼子をして、出雲守護と認めております。そこから各方面への進出・・日の出の勢いと言っていいでしょう」
こうして会話調にすると、見えてくることがある。
当時の(近江から見た)中国西部など、現在のわれわれの感覚では、中東情勢のようなものだ。憶測で語るしかなく、それはつまり、象徴に流れやすい。
出雲大社、という天皇家と比肩する歴史がある一族が治める、時空のランドマークがある。
それを領内に擁する出雲守護、という言葉は「バグダッド」「ドバイ」という象徴的な中心地と同様に、定頼や義実には響いただろう。
出雲守護の尼子氏が、中国で大暴れをしている。そういう象徴的な情報しかつかめず、現代の視点から、実情は、出雲や隠岐に加え、諸方を蚕食しているに過ぎない、という風に、彼らは冷静に見ることができなかったのではないか。
物騒なたとえだが、外国の戦争で、「パリを占領した」といわれれば、まるで、フランス一国はもう半ば征服された印象を受けるだろう。出雲という言葉には、それだけの迫力がある。
その上で、その尼子氏が、旧義稙派と一揆して義維を後援している・・弾正少弼(定頼)殿が、晴元殿との縁談を容れられないのなら、まずいことになりましょう、と脅されれば、これは強烈な説得力になろう。
「ーー京極か六角か、義維殿の幕府で重んじられるのはどちらか、ということか。しかし、わが父・義稙の継嗣は義晴殿だ。われわれはそれでやっていく」
「尽くしましょう。四国勢には色よいよう返事をしますが、今さら、後継者争いを混ぜっ返されてはたまらない」
(そもそも)
義維というのは何者なのだ?
これは、義実と定頼のみならず、当時の人間のたいていが抱く疑問だった。
鷲尾隆康は『二水記』で
『法住院(足利義澄)御息、武衛腹、江州武家(足利義晴)舎弟也、
『嶋御所(足利義稙)所為御猶子分歟、可尋、(義稙の猶子かどうか尋ねるべきだろう)』
としている。ただこれは、どうも、風聞を記したものらしく、冷泉為和などは
『今京都に公方と申すは、誰人の息共、諸人不知之』誰も義維なる人物のことは知らない、と書いている。
どうも、よく分からない人物が突如舞台に上がってきた、程度の認識だったようだ。
何やら、本当に、義澄の子供なのかどうかも怪しい人物で、当時の人間も
(四国勢の旗印たるべく創作された人物なのではないか)
くらいの疑問は抱いていたのではないか。
なにやら、ポジション的に蒲生対い鶴御所が擁する六角義実に似ている。義実が歴史の表舞台に上がっていれば、こんな印象を持たれたのではないか。
さて、右の事情が、次なる畿内情勢ミステリーの伏線となる。
大永七年(一五二七)二月の桂川合戦に勝利した波多野・三好陣営は、三月に足利義維の上陸を迎える。
それなら、サッサと入京すればよいのだが、しないのだ。
義維は堺に留まり、五月になっても上洛する様子がなかった。
(本当に、法住院〈足利義澄〉御息というのは実在するのか?)
京の人間に、そんな風に捉えられるのも当然だろう。
結局、義維はこのまま堺で文書発給などを行い、現在の研究者に「堺幕府」と呼ばれる体制を構築する。
なぜ、義維は入京しなかったのか?
これも巨大な謎だが、どの研究者も、義維の出自の弱さを指摘する。本当に将軍の息子か、断定できないのだ。大内義興が縁組みしているものの、これも義澄の後継者たる身分を演出する婚姻だった可能性がある。傍証ばかりで本証に欠ける点、本稿のような人物だ。
(果たして、義維殿が公方として迎えられるのか?)
この疑問があったのだろう。
遠大な例になってしまうが、二十六代継体天皇が乞われて天皇になる際、同じようなことが起こった。継体天皇は近江(日本書紀では越前)から河内までやって来て、二十五代武烈天皇の姉・手白香皇女を娶り、天皇になった(女系継承だろう)その後、なんと十九年、継体天皇は河内に留まり、大和には入らなかった。二十一代雄略天皇以来、大和では苛烈な皇統の争いが起こっており、男系が断絶していたともいう。武烈天皇は実在さえ疑問視されている。そこで、近江から継体天皇を迎えることになったのだが、彼は応神天皇の五世孫で、これが桓武天皇と平将門の距離に等しいと、前に言った。そんな畏れながら馬頭鬼が入り込むとあって、大和では猖獗を極める紛争となり、調整に十九年を要したのだろう。
継体天皇は河内で、足利義維も堺で足踏みしていた。時代は離れていても、やっていることはよく似ている。
ーーなにやら、このくらいあやふやな人物が、既存史観でも重要な局面で活躍している。本当に、近江に義維程度の信用度の六角義実系が擁されていてもおかしくない気がする。心証の信用度が上がった。
さて、義維は堺に留まっている。京都は、将軍不在で治安が悪化、強盗が横行している。
この地獄のような状況で、畿内は、次の局面に移る。




