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桂川原ミステリーズ~阿波勢権謀術数~

 じつはこの時期、阿波細川家は相当な外交戦をくり広げていたと思われる。

 まず、当初、髙国軍は丹波国を背後から衝くべく、但馬守護・山名誠豊(のぶとよ)に援軍を要請している。だが、この山名誠豊軍の守護代・垣屋氏が裏切り、丹波勢とともに誠豊軍に襲いかかり、敗走させる。しかもこのタイミングで、因幡守護・山名豊治(山名氏は山陰に勢力を広げている)が隣国但馬へ攻め込み、山名誠豊は本国を急襲され窮地に陥る。

 他にも、伊勢国司・北畠晴具は髙国娘が正室であり、髙国に援軍を出そうとしていた。だが、長野氏を筆頭とする伊勢の国人衆が反対し、身動きが取れなくなる。

 

 四国勢の調略は、定頼その人にさえ施されていた。

 

 一貫して髙国と義晴を支えてきた蒲生対い鶴御所の宰相だが、この時期、定頼は、細川晴元との縁談を隠密裏に進めていた。ーー作者はこれまで、つい、定頼が黒幕だという印象に囚われ、この縁談も、定頼の方から晴元に持ちかけたものかとかんがえていた。

 だが、桂川合戦を巡る四国勢の入念な工作を見ていると、どうも、逆のようだ。

 四国勢の方から、晴元と定頼娘の婚姻を持ちかけられ、阿波細川家に協力するよう迫られていたのではないか。

 桂川合戦のミステリー、その最たるものだ。

 なぜ定頼は、細川髙国より、細川晴元を選んだのか。

 彼が、この縁談に応じていたことは、六角軍の消極的な参戦と、この後、髙国よりも晴元を優先し、さらには、最終的には義晴よりも晴元を優先する態度さえ見せるようになる定頼の挙動から明らかだろう。

 しかし、この時期、どうかんがえても、京兆家当主である髙国、義晴を擁する天下人である髙国より、叛徒の位置にある晴元を優先する理由がないのだ。

 

 謎解きを棚上げして、馬部隆弘氏がその稿『桂川合戦前夜の細川晴元方による京都包囲網』で指摘されている重要な事実を記載しておく。右の山名勢の内紛も、北畠勢の紛糾も、六角氏の縁談も、ことごとく、和泉上守護代(和泉国には上下の守護・守護代が置かれている)松浦守(まつらまもる)の書状にかかれているのだ。松浦守が阿波細川家方に属していたことから、これらの謀略は、四国勢の調略だったのではないかといわれている。

 どうも、この時期の阿波細川家は、晴元(満十二歳)三好元長(満二十六歳)と若手ばかりで、世巧者の印象はなかった。だが、とんでもないブレーンがいたようだ。

 このブレーンは、細川元常、という人物ではなかったのかといわれている。元和泉上守護、澄元の時代から阿波細川家方についていた古参だ。あの九条政基の関係者が書いた書状に、明応九年(一五〇〇)和泉国で戦乱が起こった際、年貢を兵糧として取られてしまった、という文書に「その頃は、細川元常殿は未だ四国におられた」と記載されている。この時期、元常は、父親が根来寺との抗争から足利義稙(越前公方)に呼応した畠山尚順軍に攻め潰され、自害するという憂き目に遭っている。当時十九歳。

 難を逃れて、阿波で逼塞していたのだ。

 

 和泉守護は、上守護も下守護も細川氏だ。上守護代は、あの代表的な「海の国」勢力である松浦氏であり、瀬戸内海全域の海路と波濤を感じさせる、細川氏が水の武家なのだと思い出させられるような編成だ。

 この連中が謀略に走ると、強い。但馬守護山名誠豊、伊勢国司北畠晴具、いずれも内側から切りくずされている。

 そして、六角定頼が水面下で進めていた晴元との縁談も、この一環ではないか。すでに述べたが、四国勢から、定頼に、この縁談を持ち出した・・いや、迫ったのではないだろうか。

 つまりは、脅迫だ。

 

 この時期、六角定頼が北近江での戦乱に苦しめられていたことは、すでに述べた。作者は、定頼が晴元との婚姻関係を重視したのは、当時伸長する尼子氏を通じて、近江の京極氏が活性化することを恐れ、阿波細川家を味方につけて制海権を握ろうという政略だったのではないか、そうかんがえている。

 しかし、調べてみると、この大永七年(一五二七)桂川合戦の段階では、まだ、尼子氏は、そこまでの存在感を発揮していないのだ。出雲を制し、安芸、石見、備後などへ進出しようと、旺盛な軍事活動を行っており、そのエネルギッシュさは目を引くものがある。しかし、大内氏や山名氏という中国の古豪、さらに敵に味方に翻転する毛利氏に翻弄され、出雲と隠岐以上の版図を獲得できずにいる。

 さすがに近江の六角氏を、その程度の勢力で脅かすのは難しい。

 だがここで、無視できない巨大な事実がある。

 《《足利義維の正室は、大内義興の娘なのだ》》。

 つまり、阿波公方は、大内氏とつながっているのである!! これはもちろん、義稙最晩年の遺児になった義維に対し、旧臣・義興が見せた厚意だろう。

 阿波公方は、大内氏が後援する。そのくらいの心意気を見せてもおかしくない間柄だった。

 だが、六角定頼にとって、この事実ほど恐ろしいものはない。

 京極氏同族である尼子氏は、中国王大内氏と隣り合っているからこそ、押さえ込まれているのだ。

 この大内氏が、万一にも、尼子氏に味方するようなことがあれば・・

 しかも、因幡の山名豊治が但馬の山名誠豊領に侵攻していることから、阿波細川家が、山陰の山名氏に対しても口の利ける外交力の持ち主であることは明らかだ。

 大内の後援のもと、京都までの道のりは、山名が支援するとなれば・・いや、なにも、長途、山陰道を通るまでもなく、瀬戸内海まで出れば、一挙、畿内に進出できるのだ!!

 (う、ううううううううううーーーーーー!?)

 定頼が、瀬戸内海を強烈に意識した、生涯で最初の体験かもしれない。ーー下手をすれば、桂川合戦で四国勢が発揮した巨大な政治力は、大内氏の協力あってのものかもしれない。

 かんがえてみれば、義稙遺児の上洛戦なのだ。馳走したいという気分にもなろう。義興は存命である。

 もちろんこれには、首尾良く阿波公方が京洛を制せば、再び大内氏が上洛し、天下を制することができる、そういう目論見がある。

 [山名誠豊を裏切った垣屋氏は義稙に面会し、主家と同格の直参身分を認められている。但馬に攻め込んだ山名豊治は、妹が唯一の義稙側室。北畠晴具を牽制した長野通藤は、嫡子が義稙の偏諱を授かっている。六角氏も義澄から寝返った義稙陣営であり、旧義稙派が四国勢の外交戦の基軸だった可能性は高い]

 以前もそうだ。高頼が当主だった時代から、大内軍の力が義稙の背後にはあり、近江御所は、電撃的に京都を奪うことはできても、大内軍の巻き返しに抗せず、敗北を余儀なくされていた。

 甲賀大明神・高頼も、大内義興が在京している間は、大人しく、義稙に服していた。

 あの強大な番兵が、また、牙を剥くというのか・・!?

 「ーー無論、弾正少弼(定頼)殿が、六郎(晴元)殿を婿に入れられ、阿波細川家との良縁が結ばれるとあらば、話は自ずから別のこと」

 (ぬぬぬぬぬぬううううううううーーーーーー)定頼に送られた書状には、そんなことがしたためられていたのではないか。

 「阿波細川家は瀬戸内の楯となり、京極尼子氏の伸長を防ぎ止めましょう。くれぐれも、判断を誤られぬことを」

 (うぬぐうううううううーーーーーー!! うううううーーーーーーー!!)

 六角勢は、終始、消極的な参戦に留まり、桂川原で髙国軍は大敗を喫した。

 この戦いで日野内光が討ち取られている。ーー義晴は、いち早く、内光の遺児・晴光の所領安堵を文書化し、大徳寺系日野家を継続させた。

 見方を変えて、六角定頼も、大内義興始め旧義稙派として、義維を征夷大将軍に押し上げるべく誘われていた、とする。その上で、この勧誘に応じるつもりがあった・・いや、やはり、無理があるか。

 現状、京兆家当主と現将軍を擁する、正統性としては盤石だ。これをわざわざ揺るがせにして、果たして成立するかどうか分からぬ阿波公方の夢に賭ける理由がない。

 おのれの足下が乱で揺れ、かつ、遠く中国からも、尼子の勢力が大内氏や山名氏の後援を受けて、上洛にこぎ着けるかもしれない・・なんと言っても、瀬戸内海沿岸は、大内、阿波細川家、と、阿波公方勢力が幅を利かせている!!

 そもそも、尼子氏自体、経久が大内義興とともに船岡山合戦に参加し、近江御所から京都を奪還すべく尽力している。旧義稙派なのだ!! この作戦で、大内氏や山名氏と一丸となって、上洛を目指すだけで、六角氏には気の遠くなる事態だ。

 しかし、一方で、晴元の結婚は天文六年(一五三七)十年後なのだ。相手は、三条公頼の娘が定頼猶子になったもので、定頼が、精一杯の抵抗をしているかのようだ。

 この間、作者は、定頼がギリギリの奇術外交を展開したのではないかとかんがえている。

 何にせよ、桂川原の戦いは、髙国軍の敗北で終わった。この戦いには、まだ、ミステリーがある。髙国軍とともに、義晴も桂川原へ出陣した。これは、義晴の初陣であり、華々しく飾られてあるべき盛事だった。

 にもかかわらず、公家の鷲尾隆康が記すところ、この出陣は「密々之儀」秘密裏のものだったという。義晴は鷹狩りの装束をまとい、供のものもごく軽装、伊勢家被官、奉公衆といった親衛隊も、将軍からは離れて進軍するという、さあらぬ体で桂川原まで移動した。鷲尾隆康『二水記』によれば、相手方は波多野兄弟も三好元長も、言うならば細川髙国や晴元の被官でしかない。陪臣ずれを相手するのに将軍が直々に出向くのは問題があったのだという。

 桂川原で髙国軍が敗走する時も、義晴の勢は後方で傍観を貫いた。戦いの経緯を見守っていただけ、という体裁だが、追撃に逸る三好勢が肉迫し、結局、総崩れになって撤退している。

 陪臣相手だから表立って将軍自身が出陣するわけにはいかない、というのは、少々苦しい解釈に思える。

 それ以上に、三好軍の背後に、大内氏、山名氏、さらには旧義稙派という幕府でもそうそうたるウェイトを占める重鎮達がいた。彼らとの対立を表面化するわけにはいかず、将軍の出陣は偽装され、戦場でも後方で拱手傍観するのに留まった、という可能性はないだろうか。

 思っていたよりも、はるかに大きなものが、この一戦の裏では蠢いていた。

 そして、畿内情勢のミステリーは、この後も連続するのだ。

 


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