桂川原ミステリーズ~諸大名は動かない~
近衛家も、義晴の正室に一族の娘を送り出すべく、周辺との調整に入っている。大永五年(一五二五)か六年(一五二六)の傍証だが、近衛尚通が記した『後法成寺関白記』大永六年冊、その表紙の紙背文書(別の草稿や書き損じなどを表紙の紙に用いた、そこに記されている文書)に、こういうものがある。
『鹿苑院(足利義満)御代 権大納言時光(日野時光)卿女、贈一品藤原業子、此腹無御子』
足利義満の時代、日野時光(一三二八~一三六七)の娘、藤原(日野)業子
「此腹無御子」子供なし・・
と、なかなか、心の冷えることをつづっている。
『勝定院(足利義持)御代、権大納言資康(日野資康)卿女、一品栄子、此腹長徳院(足利義量)、十九歳ニシテ御早世、無御相続』
足利義量はきちんと五代将軍になったが、十九歳で亡くなっている。
『普広院(足利義教)殿御代、贈左大臣重光(日野重光)公女、一品重子、此腹ニ慶雲院(足利義勝)十歳ニシテ御早世也、又普広院(足利義教)殿御生涯前代未聞一段御事歟(や、嘆き、感嘆詞)』
六代足利義教の時代、日野重光の娘、日野重子、彼女が産んだ七代慶勝は十歳にして早世した。
又普広院(足利義教)殿御生涯前代未聞一段御事歟
六代足利義教は、別名「万人恐怖」鎌倉府を征伐し、守護大名たちの内政に容喙して、多数の処罰者を出した。守護達は、次は自分が槍玉に挙げられるのではないかと恐れ、挙げ句、疑心暗鬼に駆られた赤松満祐・教康父子に殺害され、その首級を持ち去られた。
これは特段日野氏娘のせいでもないだろうが、こんな案配に、日野氏の娘をもらうと、将軍には御不幸が訪れると、列挙している。
『法住院(足利義澄)殿 広福院(英俊、日野勝光の弟)女、日野猶子分歟、是又無御子』
足利義澄の時代、日野勝光弟・永俊の娘、日野阿子、日野家の猶子となるが、これもまた子供はない。
『いつれもヽ(いずれも)不快之御例歟、』
ずいぶんなことを書き綴ったものだ。これは、結局日記の紙背にしているから、清書して誰ぞに送ったのか、取りやめにしたのか定かではないが「日野家の娘は止めた方がいい」と誰かを説得しようとしていたのは確かだろう。
その他にも、近衛尚通の日記には、髙国や細川尹賢が、何度も近衛家と交流していることが記されていて、密謀の進行が反映されている。
さて、丹波国八上城や神尾山城に籠もった波多野兄弟は、細川尹賢の侵攻を撃退し、ここで、四国から阿波勢が上陸して、摂津諸城を陥落させる。堀城、野田城、山崎城、そこから京都へ向かい、茨城城、太田城、安威城、そして、京都との連絡地点である芥川城も、陥落させている。
丹波と阿波、京都に圧力を加える二方面からの脅威に、髙国─義晴体制は揺らいだ。
そして、波多野軍と三好軍は、山崎城で合流、そこからすぐ北東の、長岡京跡地
桂川を挟んで、髙国軍と対峙する。
事、ここに至るまで、髙国と義晴は、諸大名に上洛を訴え、援軍を要請している。ーーしかし、これに応えるものは少なく、やっとで若狭武田氏から武田元光が入京。
北近江の乱でさんざん世話になったはずの定頼すら動きは鈍く、二千から三千の兵を配下に付けて送った限りだ。
桂川原の戦いのミステリー。諸大名の動きの鈍さだ。




