桂川原ミステリーズ
いったん、媒酌人達の苦難に戻る。大永元年(一五二一)十二月二十五日、義晴、十二代征夷大将軍に宣下される。
(ーー兎にも角にも一本化だ!! そして、まだまだ若い、いや、幼い!!)媒酌人達は、息も絶え絶えに、希望をつないだことだろう。
(足利義晴こそ、近衛家と蒲生対い鶴御所の輿望を担う人間だ!!)
そうかんがえるしかない。すでに、明応九年(一五〇〇)の結盟以来、二十年以上が経過している。この十歳ほどの童が、適齢期に達するまで、まだまだ待たねばならないだろうが・・ーー
当時の公家社会は、正式な婚儀を挙げなければ、正室としてみなされない。義晴が元服するまでは、まだ待たねばならない。しかし、それから一年後か二年後には、義維、いや、この頃は足利義賢が、義稙の養子となっている。
依然、四国に不穏な勢力が盤踞している。それはそれとして、大永五年(一五二五)四月に髙国が剃髪・出家して「道永」と名乗る。
このあたりまでは、京都は平穏だった。ーーもっとも、この時髙国が京兆家家督を譲った嫡子・稙国は、年末に没し、急遽、髙国が家督を再度引き受けることになる。
しかしこの時期、北近江では、京極髙清を戴く国人衆の盟主に、猛将・浅井亮政が躍り出る。彼が小谷城を築き、覇を唱える様子を見せると、定頼が侵攻。しかし、小谷城の防御力を前に苦戦を強いられる。
(浅井というのは!!ーー)以後、北近江で京極氏を戴く勢力で、浅井が雄となる。久政、長政と、これが信長時代までつづく。久政は凡将といわれるが、彼の母親は尼子氏(おそらく近江国尼子郷の尼子氏だろう)娘であり、他家の養子が家督を相続するところを、急に、特に何の波乱もなく、久政が相続した経緯がある。数年前には播磨に侵攻し、上洛の構えを見せていた、中国の尼子氏と、京極氏繋がりの危険な連携があったものと思われる。久政の名が、尼子経久、晴久に共通する「久」の通字を使っていることに注目されたい。
だが、小谷城に手を焼く定頼は、越前朝倉氏の援軍を頼む。朝倉教景が出陣し、硬軟取り混ぜた干渉で、ついに、京極髙清、そして浅井亮政を、美濃へ追放する・・もっとも、すぐに戻ってくるのだが。
六角氏は受難の季節だ。浅井に呼応して、高頼時代からの懸案だった伊庭氏の乱が火を吹いた。高頼と争った伊庭貞隆の子、貞説が牙を剥く。
これらの反乱に手こずった定頼に、髙国や義晴が力を貸した。髙国が、伊庭貞説の乱で六角氏に援軍を派遣、さらに義晴が周辺大名に呼びかけ、近江の和平を図る。
大永六年(一五二六)七月、髙国が、しくじった。従兄である細川尹賢の讒謗を真に受けて、重臣・香西元盛を殺害してしまったのだ!! これはもとをただせば普請現場での口論がきっかけというしようのない事件で、香西元盛の死に憤慨した二人の兄弟、波多野元清と、柳本賢治が丹波で蜂起、挙兵する。
兄弟と言った。順番通りにすると、波多野元清、香西元盛、柳本賢治である。彼らは、波多野清秀の息子達で、要するに、他家に入ってこそいたが、丹波波多野氏なのだ!!
三好政権も織田政権もさんざん手を焼いた丹波波多野氏である。髙国は、とんでもなく手強い相手を敵に回したことになる。
自らに讒言をした細川尹肩を派遣するが、果たして、丹波の八上城に籠もる波多野兄弟に敗退する。
この期を逃さないものたちがいた。
四国・阿波細川家だ。
三好元長、細川晴元らが挙兵、阿波勢が渡海し、北方から圧力をかける丹波勢とともに京都に迫る。
すでに、大永七年(一五二七)二月、桂川原の戦い周辺の、ミステリーな状況に踏み入っている。




