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六角家内紛

 足利義維について調べると、じつは「義維」という名前が、初名ではないことが分かる。義澄の二男義維は、幼名不詳、大永元年(一五二一)義稙が和泉や淡路を転々としている時に「義賢」をともなっていた、と『公卿補任』にある。

 この「義賢」が、義維である。ただ、二人が親子関係になるのは、義稙が阿波に渡ってからであり、それ以前にも行動をともにしていた、ということだろうか。

 すると、義稙は、おのれが亀王丸を退け将軍に返り咲くのではなく、義維を新将軍として擁立しようとしていたのだろうか?

 義維は、その後、大永七年(一五二六)七月十三日、左馬守に叙任され「義維」と名を改める。

 さらに享禄五年(一五三二)晴元の要請を受けた一向一揆衆が堺公方を壊滅させ、阿波に逃れる時に「義冬」と改名する。・・どうも、九州や中国から、畿内へ捲土重来した等持院尊氏の二男にして宿敵「直冬」に倣っているのではないか。

 

 じつにいろいろなことを汲み取れる改名履歴だが、今気になるのは、初名の「義賢」だ。

 六角承禎の本名と同じだ。六角義賢は、大永元年(一五二一)に生まれ、天文二年(一五三三)観音寺城で元服、当時、同城麓桑の実寺で執務をしていた足利義晴から偏諱を授かり、義賢と名乗った。

 まあ「義」の字を拝領した、ということだろう。だが、まさか、一字を拝領した目上の人物、その実弟の名前を六角氏側から名乗るとは思えない。義晴から、義の字とともに義賢の名前を贈ったのだろう。

 だがこの時期、義晴は、大物崩れでおのれを担ぐ髙国を失い、近江に逐電している時期である。義維、もともと「義賢」だった男とは、敵対中なのだ(まあ、その堺公方も、前年、一五三二年に消滅して、阿波に逐電しているが)

 このタイミングで、おのれが世話になっている定頼嫡子に、政敵である実弟の名を付ける・・親密のアピールとしては、なにか、距離感がおかしくないだろうか?

 この名前をもらった六角氏側も、戸惑うしかないだろう。(公方はわれわれの赤誠をお疑いか?)そうなるのではないか。

 

 だが、ここで、六角義実流の存在を挿入してもらいたい。義実は、一つ年上の兄であり(正確には従兄)六角氏との関係は、親戚関係となる。

 いわば、ハトコのような距離感であろう定頼嫡子に対し、政敵になった実弟の、もともと使っていた「義賢」という名前を贈る。

 親戚同士のやりとりとしては、ここに不穏の気配は少なく、実弟のお下がりを「ハトコ」に贈ることで、より親密な関係を望む・・そういうやりとりにならないだろうか?

 どうも、六角義実流を認めた方が、義晴や六角氏の行蔵には説明がついてしまうのだ。

 

 こうなると、六角義賢の嫡子、義治も気になってしまう。義治は、天文十四年(一五四五)に生まれ、初名は義弼(よしすけ)足利義輝から偏諱を授かり「義治」という名前になった。

 字こそ違うが、義晴と同じ音であり、義晴と六角氏の関係を考えると、作為があってのことだろう。やはり、義輝から六角義弼に贈った名前だろうが、ずいぶんな親密さ、親戚同士を匂わせる距離感がある。

 同時に、かんがえるのだ。義実流は、義実─義秀─義郷─氏郷、没落する前は義を通字とし、足利将軍家との同族意識を掲げている。

 これに対し、定頼流も、高頼─氏綱─定頼─義賢─義治とつづいており、承禎義賢のあたりから、義を通字とする異質な名前になっている。ちなみに、義治の次の代は、弟の義定だ。

 何を言いたいかと言えば、六角承禎の代から、定頼流は、御所様、義実流に対し、対抗意識を持ち始めたのではないだろうか、ということだ。

 まず、定頼が天文二十一年(一五五二)正月に没し、義賢が当主になると、足利義輝と三好家との和睦が急速に進む。

 『一方で、承禎の方も、これまで蒲生対い鶴御所を建てて近江から政界に干渉した江雲寺殿定頼ほどの野心はないと、長慶側に伝わっている。ーーなんとなれば、天文二十一年(一五五二)正月に和睦が成立した時、晴元嫡子であり、定頼娘の子、聡明丸を人質に差し出している。

 それだけではない。その際に、承禎は、《《蒲生氏の子供》》まで、人質として三好方へ差し出している!!

 佐々木源氏・・蒲生氏を尊貴とする新約武権神授説を振りかざすつもりはないと、鮮明にアピールしている!!』

 聡明丸とともに、何人か、重臣の子供たちを人質に差し出しているのだが、その中に、蒲生氏の子供もいたのだ!!

 これは、高郷流の蒲生氏だろうが、それまでの蒲生対い鶴御所からの方針転換を示す好例だ。

 もとより、嫡流・定頼流、裏の嫡流というのか、権威は義実流という二本立ては、多分に無理のある体制だ。

 (ーー本願寺勢力との婚姻にも踏み切ったのだぞ・・あやつらは九条家猶子ぞ!! これ以上、新約武権神授説ので、九条家や日野家と正面切って抗争できるか!!)

 というのが、承禎の本音だったのだろう。

 それでも、甲賀大明神高頼の後、定頼までは、蒲生対い鶴御所は温存された。三上流蒲生稲置氏で武門の棟梁を統べる計画が持ち越された。

 おそらく、どこかの時点で、将軍家に、義実流の姫を、嫁がせることになっていたのだろう。

 それで、息長流日野家は失墜し、その祖である三上流蒲生稲置氏が八幡旗手として、室町幕府を運営する。

 輝かしい夢ではあるが、その夢を見続けるには、承禎が直面した現実は、苛烈すぎた。

 この転針には、中国状勢も大きく関わっていただろう。

 

 


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