続・室町伏魔殿の考察
この時期、明応四年(一四九五)九月に日野家当主政資(勝光の子)が没し、継嗣不在につき、徳大寺実淳の子・内光が養子に入り、日野家当主になっている。これは政資の遺言に基づく措置だったが、政資の実弟(烏丸冬光)が相続を主張、日野家全体が反対した。 ということは、日野内光の当主就任は、翌明応五年(一四九六)にまでずれ込んだとかんがえるべきだ。
同年一月に、九条政基が唐橋在数を殺害した。
つまり、九条─日野ラインが、双方で、没落の兆しを見せたのだ!!
(ほう!!)近衛政家は、このタイミングで、仕掛けたのではないか。
明応六年(一四九七)七月二十六日、德大寺維子(つな子)と近衛尚通(政家嫡男)が結婚。
德大寺維子は、日野内光の妹だ!!
近衛家は、日野家の家政に介入する手段を得たのだ!!
結婚が明応六年(一四九七)やはり、一年以上前から縁談はスタートさせただろう。
日野家と、九条家の没落が明らかになりつつある時期・・しかも、同年五月に、日野富子も没している!!
政家が、攻勢に出たのは、このタイミングだろう。事実、日野内光─晴光の二代に渡って、日野家は将軍家御台所からも離れ、不活性状態になる。
九条─日野─本願寺という強力なラインの解体に、彼は着手した。
明応九年(一五〇〇)八月十三日に、六角高頼に近衛政家─尚通父子が招待されたわけだが、一体どこで、両者が接近したのだろう。そもそも、高頼も政家も、別に風雅の道で有名なわけではない。近江八景を選ぶ風流な催しをする理由がないのだ。ともあれ、日野家は政家の義子(嫁の兄)である内光が継ぎ、息長流の神聖権威が弱まっている。三上流蒲生稲置氏を掲げる六角高頼との同盟は至極道理で、ここから、媒酌人(正確には仲人だろうが、媒酌人で通す)たちが、将軍家御台所へ近衛家娘を送り込む遠大なプロジェクトに着手したのは、すでに語った。
それが苦難の連続で、義澄が日野家娘と離縁した、と思ったら将軍が二人並立し、しかも、勝者となった義稙が四十代という難局に差しかかったことも、すでに述べた。
(義稙に子供はない)
そう思っていたら、猶子ができた。義澄の子・足利亀王丸だ。
(義稙という男は、一体何を考えているんだ?)そう思いながら、もう、この亀王丸こと義晴に託すしかない、という気分になっていただろう。
永正十七年(一五二〇)五月、等持院の戦い。細川髙国を加入させた蒲生対い鶴御所が、将軍義稙を担ぐ格好になった。こうして確認してみると、近衛─大徳寺─日野のラインはすでに成立していて、そこに、大徳寺家と縁を持つ髙国が加入する形だったことが分かる。 そして、同年六月、義稙出奔。
『「将軍が京を去られた」
その目は、この事態によって開けた展望へと、向けられている。
「新たな将軍をお迎えせねばならぬ」』
となる。
この義稙出奔は、思わぬ一面がある。当時の後柏原天皇は、明応九年(一五〇〇)十月に即位したものの、朝廷財政が逼迫していて、長年、即位の礼が執り行えずにいた。
幕府もガタガタなら、朝廷もガタガタだ。
ようよう即位礼を執り行えるようになったのが、なんと、大永元年(一五二一)三月二十二日である。即位から二十年以上、即位式を行えなかったのだ。
前例と礼式で運営される朝にあって、これは常に、後柏原帝の瑕疵になっただろう。
(わしはついに、今度こそ、〝帝〟になれる!! 天日嗣〈あまつひつぎ〉として、誰恥じることのなく皇統に列するのだ)
そう思っていたら、足利義稙が出奔した。
(ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!)
本来なら、これで、即位礼は取りやめになるはずだった。だが、事件に激怒した後柏原天皇は、即位礼を強行した。このあたり、やはり日本の天皇はムラゲ王というのか、工場長というのか・・
細川髙国は、これを奇貨とした。即位礼執行に協力し、警固を務め、つつがなく完了させた。
これは無論、足利将軍が執り行うべき盛事であり、間違いなく髙国が天下人なのだというデモンストレーションになる。
その上、義稙不在の即位礼を執り行った以上、髙国の次の要求を断るわけにはいかなくなってしまった。
次期将軍として、足利亀王丸を就任させるのだ。
即位礼と同年、七月六日、亀王丸上洛。これは、かなり強引な手段だった。亀王丸を擁する赤松義村を重臣・浦上村宗が裏切った。当時両者は抗争状態だったが、浦上村宗が和睦を提案、その席で、赤松義村を捕縛・幽閉、後に殺害している。
[この事件が、義晴・髙国が義維・晴元陣営と合戦した際、赤松晴政が寝返り、前者が敗走する〝大物崩れ〟につながる]
こうして上洛した亀王丸は、義晴と改名、大永元年(一五二一)十二月二十五日に征夷大将軍に宣下される。
(亀王丸ーーーーーーーーーー!?)
義稙は、愕然としただろう。
すべて、義稙側の視点にはない、近江の側で動いている。義稙に追われた義澄が、近江御所を建て、六角高頼に依存する関係になった。義澄は、仮冒か、まことか、六角氏綱に妹を与え、二人の間で、義実が生まれた。この隠匿された〝御所様〟が、その後、高頼が要請したのか、義稙から猶子縁組みを受けて、義晴と義実は猶子兄弟となる。どちらも、六角家と足利家の子供だった可能性がある。
亀王丸と、幼名不詳ながら、恐らく「亀」の名だったろう義実。
永正十七年(一五二〇)に細川髙国が近江へ逐電すると、彼を取り込み、京都へ打ち込んだ。
将軍家の隠し子〝御所様〟の打入という形になり、近隣大名は奮って馳走した。その後、自らの子に担がれる形になり、髙国からの縁組みの強請もあったものか、義稙は出奔・・ーーー
おのれの後継者に立てた亀王丸に、余計な政敵を増やさないためだったが
その亀王丸が、髙国政権の傀儡に擁されてしまった!!
(オオオォオオオオオオオオオオオオオーーーーーーーー!?)
もとより、亀王丸を預けていた赤松義村とは、同盟者だった。彼は、義稙に服属し、義稙が出奔した後は、亀王丸を奉じて挙兵し、浦上村宗と争っていた。
そんな彼から、まともな説得で亀王丸を引き渡してもらえるはずがない・・だから、髙国と浦上村宗は、図って、偽って和議を申し出、その席に現れた赤松義村を幽閉したのだ!!
亀王丸も引き剥がされた。間違いなく、傀儡になろう。
『一説によると、症状が悪化し、前途を見限った義晴が、自害したのだという。かねて義晴は、自分は辰の日の辰の刻に死ぬと宣言しており、五月四日は戌の日なれど、時刻は一致している。
(髙国めに呼び出されて以来、人の都合で右往左往じゃ。せめて、往生ばかりはおのれで遂げるまでよーーーーーーーー!!)
その気概があってもおかしくない人物だった。人の一生が画布に絵を描くごときものなら、彼は、ずっと、その手を誰かにつかまれ、他人のための絵を描かされていた。
その境遇から脱するために、死に際、白刃を抜くしかなかったのかもしれない。』
永正十八年(一五二一)七月、亀王丸上洛。
八月二十三日、朝廷は年号を「永正」から「大永」に改元。
改元の理由は「将軍義稙が他国に下向につき、新たな将軍を立てねばならなくなった。これにともない年号も改める」だ。
暦の上からも、義稙は否定された。
十月下旬、義稙は淡路から兵を進め、堺まで進軍する。だが、味方するものは少なく、髙国や畠山稙長の軍勢に敗れ、数百人の戦死者を出して撤退。
それでも、淡路に留まり「淡路御所」と呼ばれるようになる。
京都をうかがい続けるが、十二月二十五日、義晴が将軍宣下を授かる。
(ーーーーーーーーーーー!!)
義稙の戦いは、終わった。
義稙は、淡路から阿波に下向。
そこで、若き三好元長と、童の細川晴元、義澄遺児義維に迎えられる。
今や亀王丸は、足利義晴は、義稙の仇敵という位置だった。
阿波細川家で、義維を養子に迎えた義稙の心情はどうだったのだろう。
間違いなく、将来、義晴の対立候補になる義澄の遺児である。
(亀王丸・・四郎〈義実〉・・義維・・人の親でもないものが、なにを、人の親がましく子を成しておるのかよ)
その不条理は、この場合、悲劇に行き着くのだ。・・おのれに子がいないために、髙国、澄之(九条家出身)澄元(阿波細川家出身)と、養子を増やしていった、細川政元のように。
あれも、おのれの養子が敵に回り(澄之)湯殿で討たれる最期を遂げた・・ーーーー
その養子同士が、両細川の乱を、未だにくり広げている。
(おれはまた、くり返している!!)
政元に京を追われ、十五年もの放浪を余儀なくされたおのれが・・
よりにもよって、あの鳥狂いめと、同じ末路に至ろうとしている!!
(ああああああああああああーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!?)
義稙が義維を養子にした日、十歳にもなっていない晴元は、思わぬものを目にしたかもしれない。
「ーーおことが、やがて、阿波細川家を率いて捲土重来の軍を起こそう・・どうか、その軍に勝利したのなら、こればかりは、容れてくれぬか」
将軍たる人に頼まれることなぞ、こうも懇願されようとは、思ってもいなかった。
(右京大夫〈政元〉・・天狗!! 貴様と同じ魔縁には堕ちぬ!!)
「亀王丸めが身を立てることができるよう、計らってやってくれ。十五年彷徨い、京に戻り、公方としておのれがこしらえた、ただ一人の子・・おことらの主人にとって政敵であろうが、わが生涯を引き継ぐ後継者は、まぎれものう、あやつじゃ」
人でなしだな・・当然、そう思った。
四郎義実、今日この日わが子に迎えた義維・・同じ義子達に、なぜ、格差を設ける?
ーーそれが、細川政元とおのれが、格差を設けられる、ただ一つの方途だからか?
(ああああああああーーーーーーーーーーー)
「お頼み申す・・聡明丸殿
「父親にすらなれなんだ男の、愚かな末路を救ってくれ」
まだ聡明丸と呼ばれていた晴元には、逃げ場などなかった。
『当然、堺公方の意気は上がった。
だが、ここから、歴史はずいぶんな変調を来す。細川髙国を討ったのだ。義晴を擁する最大の実力者を除いたのだから、自分たちが担ぐ義維を将軍にすればいい。
だが、細川晴元は、それを選ばなかった。
彼は、細川京兆家を継ぐ段階で満足し、義晴と和睦して、京兆家の家督と管領の座を手に入れようとする。
三好元長はこれに猛反発、両者の間にまた溝ができてしまう。』
(畢竟、義維でも、義晴でも、どちらでもいいのだ)
細川京兆家を継ぎ、本願寺、法華宗、そして三好家を相手に渡り合うことになる男は、梟雄達の時代を生き抜くことになる男は、そううそぶいていただろう。
彼の瞼の裏には、阿波細川家に下向してきた、生涯を放浪と闘争に費やした男が、正しく大樹と呼ぶしかない老樹があった。
軍場に残った、楡の木のようだ。
(おれにとって、大樹はただ御一人よ)
小僧は小僧なりに、思うところがあったのかもしれない。
彼もまた、阿波から出て、勝利し義晴を担い、その子・義輝の代にまでまたがって、氏綱を立ておのれを京兆家当主から追った三好家と対決しつづけた。
不屈の放浪者の魂は、わが子を人質に取られ、出家しても三好の仇敵でありつづけた男に、鬼子なりとも、受け継がれていたということだろう。
最終的に、放浪の将軍は、阿波に落ち着いたのだ。




