室町伏魔殿の考察
髙国加入以前、明応九年(一五〇〇)八月十三日の近江下向(近江八景選出)を、蒲生対い鶴御所成立、九条流─日野家体制に狼煙を上げた時点だとすると、この間の近衛流─六角家の手腕は、辣腕としか言い様がない。
そして、それに先立つ諸勢力の様相よ!!
まず、応仁の乱だ。日野富子が金貸しのような真似をして不評を買ったのは有名だが、それ以外にも、勝光・富子兄妹との反目で足利義視が西軍に当時、彼らに大将軍として担ぎ上げられた。
十年に渡る戦乱は、長期化の一因は、この日野家兄弟にある。
その後、義視の子・義稙(義材)と、堀越公方家出身の義澄との間で、どちらが将軍になるかで割れる。
『義尚の後継者には、二人候補がいる。一人は、足利義視と日野良子の長男、義材。もう一人は、義政に関東に派遣され、鎌倉入りができず堀越公方になった足利政知の次男・義澄だ。
義材が十代将軍になれば、大御所として義視が君臨する。細川京兆家(宗家)当主たる政元には面白くなく、彼は義澄を推した。だが、日野富子と畠山政長は義材を推す。ここで両派は対立し、結果、義材が十代将軍に決定する。義視と義材は延徳元年(一四八九)四月に入京。』
足利義視は、政元の政敵である畠山政長と協力関係だった。そして、入京した義視─義材父子を、富子は小川御所に住まわせた。小川御所は先の将軍、九代義尚の御所であり、富子が義材を次期将軍として認めた証左だった。
しかしである。
『ともあれ、永遠に生きるものはない。長年、風流と豪宕、ままならぬ政務に挑んだ義政も没し、義材が十代将軍になる。
これが延徳二年(一四九〇)七月五日だ。
その一月前から、義視と富子が険悪になっている。ーーーこれはもう、日野家の重さを笠に着た富子が原因だ。そう考えた方がいい。
富子は、同年四月末、義材と将軍の座を争った義澄へ、かつて義尚が暮らしていた小川御所を譲渡した。つまり、将軍の御所を義澄に与えたわけであり、義視・義材への背信行為以外の何物でもない。
富子のこの行動については、かつて不仲で、西軍方に付いたこともある義視と義材が暴走しないように牽制した、そう解釈されている。ーーそれにしても、ひどい。兄の勝光を排除しようとした行動を未だに根に持っていたのか、どうも、彼女の行動には、幕府の闇将軍たる日野家の思い通りにならないはずがない、という思い上がりが透けて見える。この時代は、本願寺実如が宗主だろうか? 九代実如上人は、勝光の猶子であり、その点からも、彼女の自信を補強していたのかもしれない。
だが、当然、義視は激怒した。』
読み間違いではない。
富子は、おのれ自身が小川御所に義材を住まわせ、次期将軍として認める意思表示をした後に、その小川御所を対立候補である義澄に譲渡してしまったのだ!!
(姉上いい加減に召されよーーーーーーーー!!)
義視が怒るのも当然だ。彼は報復に小川御所を破却した上で、富子の所領を差し押さえた。
この富子の不可思議な行動は、かつて西軍としておのれと対立した義視や義材が、権力の座について暴走しないよう牽制した、というのが通説だ。
だが、次期将軍の座を巡って、こんなハンドラーじみた、おのれの手中で自在にできると言うかのような行動を取るのは大問題だ。いたずらに政局を混乱させるだけである。
さらにしかしを重ねる。本稿は、九条流─日野家の構造が見えている。
ここで注目すべきは、翌延徳三年(一四九一)二月十三日に、九条政基から養子(細川澄之)を迎えていることだ!!
・延徳元年(一四八九)四月十九日、義材、富子に招かれて、小川御所に移る。
・延徳二年(一四九〇)四月二十七日、富子、義澄に小川御所を譲る。
・延徳三年(一四九一)二月十三日、九条政基二男が細川政元の養子になる。
である。
大名や公家クラスが電撃結婚は基本的にしない。彼らの結婚は政略であり、一年以上前から交渉に入るだろう。
つまり、富子の変節するまでの期間に合致するのだ!!
これは、畠山政長と対立し、義視─義材が大御所と将軍になることを喜ばない、政元が行動した結果ではないだろうか。
そもそも、義視─義材が小川御所に入った同日に、義政が、義尚亡き後の政務を自分が執り行うことを発表している。次期将軍問題を棚上げする発言である。義政は、朝廷に働きかけて「三代将軍義持も隠居したまま執政をしている。問題はない」という勅語を出させている。ずいぶん念入りだが、これは、九条流─日野家のラインがすでに政元の介入によって義材の将軍就任を喜ばぬ意向が形作られつつあることを察していたのではないか? 富子は、義材の将軍就任を推していたが、それも一年の間に心変わりして、小川御所を義澄方へ譲った。どうも、蒲生家と六角家で幼名を比較したせいか、次のことも気になる。
九条政基(細川澄之実父)の幼名は「茶々丸」
その名は、堀越公方家を亡ぼした義澄兄、足利茶々丸に受け継がれている!!
九条政基─細川政元─足利義澄
このラインで、堀越公方家の将軍就任を望む意思形成が成されていたのではないか。
えらい伏魔殿である。ともあれ、富子の立ち回りは、いたずらに室町幕府を混乱させた。
その上で、明応の政変(一四九三)だ。義材、義稙が追われ、十一代将軍に義澄が就いた。
ここから、二人の将軍が並立し、しかも在京将軍がスイッチするという室町秩序が決定的に脅かされる事態になる。現代の研究では、応仁の乱以上に、明応の政変が室町幕府の致命傷になったとされている。
この明応の政変時、富子は、政元に協力し、義澄の支持に回った。
(日野家というのは)
九条流─日野家に対抗する近衛家にとって、唖然とする出来事だっただろう。そして、九条政基だ。
どうも、念願通りに義澄が将軍になった、ということで、浮かれていたのだろうか。
この男、三年後(一四九六)に、なかなか、信じられない事件を起こす。
ちょっと入り組んでいるのだが、九条政基が公事にかかる費用を家司の唐橋在数(ありかず、正四位下、大学頭)に立て替えてもらった。この借金を棒引きにする代わりに、一定期間、九条家所領の年貢徴収権を与えた。しかし段銭(田畑にかかる臨時税、銭納)徴収に失敗し、唐橋在数は、預かっている九条家所領を抵当に、根来寺から融資を受けた。この返済に滞り、根来寺が所領を差し押さえようとする。九条政基は、唐橋在数が勝手に作った借金だと主張、在数は、九条家の金銭要求に応えるため自分が預けられている所領を処分した、必要な行為だと主張。両者すれ違いのまま、明応五年(一四九六)正月、唐橋在数は、九条邸に借金返済のための談判に押しかける。
これに腹を立てた九条政基が、唐橋在数を殺害。
武家ではなく、公家の事件だ。それに唐橋在数は、九条家家司ながら、殿上人の一人なのだ。
かといって、九条政家は、なんといっても摂関家だ。これに処罰を加えるに適切な先例もない。朝廷が騒然とする中、最終的に、後土御門天皇の勅勘により出仕を停止、九条家は向後家令を持つことを禁じられる。
近衛家当主政家は、この事件に関しては、唐橋在数の怠慢を責めている。九条家への処分にも消極的だった。
だが、この事件で、九条家の権威は失墜した。
(仕掛けるか)
日野家の後ろ盾たる九条家は、落ち目である。




