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法華宗

 頭を抱えたくなるような人物だ。細川晴元、天文五年(一五三六)で、満二十二歳か。三好元長、足利義維、一向宗、法華宗、と、陣営を同じくしたものたちを討っている。これだけの裏切りを、主体的に、自分の判断でやっているとしたら、かえって、みょうに冷徹一貫とした人物として、晴元を高評価しなくてはならなくなる。

 だから、側近の一人だった木沢長政が企図していたのではないかとかんがえているのだ。おのれの立身と保身に平気で周囲に犠牲を強いる長政の没義道なやり口なら、彼の企図を、他人に迷惑を掛けることを意に介さない晴元が、勧められるがまま容れていたとしたら、十分、こういう人倫の惨状が起こりうる。

 きっかけは、法華宗と比叡山延暦寺の抗争だ。ーーもっと遡って、日蓮大師と比叡山の関係に発端がある。日蓮は安房国の漁村で生まれ、自ら「賤民の子」と名乗っている。ものすごい自信と上昇志向である。十二歳の時に、現在の千葉県鴨川市にある清澄寺に登った。ここが天台宗寺院で、長じた日蓮は延暦寺や三井寺、高野山を巡って学識を深めていく。

 つまり、日蓮の教学の基礎には、天台宗がある。だからこそ、後に、法華経を第一とする教学を立ち上げたのだろう。天台宗も、法華経を根本仏典にしているのだ。日蓮宗のそれは、釈迦の教えを説いた妙法蓮華経に対し、真言の禅の念仏の、といった邪宗がはびこり、正法を軽んじるからこそ、種々の国難が生じるのだ、という厳格な宗旨の位階を設けた。念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊だ。

 とはいえ、妙法蓮華経を中心にしている。この点で、やはり、日蓮宗は天台宗と同根で、法華宗は、実は天台宗の別称でもある。両者は微妙な関係だった。

 一向宗の退治に参加したことで、法華宗の位置は高まった。京都で一種の自治権を得、さらに地税の支払いを拒否、数年間にわたって権力を伸長させた。

 天文五年(一五三六)三月三日、松本久吉という法華宗の檀那が、事件を起こした。『松本問答』によると、久吉は、京都一条烏丸の観音堂で、叡山僧が即身仏の講義をしているのを聞き、同僧が日蓮宗を誹謗すると、これに反論、論破して、高座から下ろし、袈裟を剥ぎ取った。

 ずいぶん道具立てがわかりやすく、フィクションを疑ってしまう。比叡山の僧が、即身仏、つまり、真言宗の教義を説法していた、というシチュエーションが、日蓮宗との違いを物語っている。天台宗は、法華経を中心経典としながら、仏教の総合大学という性格が強く、最澄の時代から密教部門を併設している。それを、正法を遵奉する日蓮宗の、それも僧ではなく一檀那が喝破するという痛快な展開で、痛快な分、筋立てに物語を感じてしまう。

 ともあれ、延暦寺の僧が、日蓮宗の一般信者に説破された、という噂が広まり、はなはだ面目を潰された。延暦寺は、洛中の宿を改め、松本久吉を探したが、見つからない。

 このため、事態を政治問題化した。京都左京区南禅寺にいた足利義晴へ訴え出た。

 

 義晴の消息からしばらく離れていた。彼は、細川晴元との和睦が成り、観音寺城山麓の桑実寺から、京都に移っている。この入京に、六角定頼も従ったが、彼は、そのまま在京することはなく、近江に戻って有力国人ににらみを利かせていた。近江守護だからこそできることで、大内義興はこうはいかなかった。

 そういうわけで、現在の京都は、晴元と、同族の細川元常(和泉守護)そして定頼の三者で運営されている。束の間の安定期だった。

 

 延暦寺は、天文五年(一五三六)三月、義晴に訴え、日蓮宗が向後「法華宗」を名乗らぬよう求めた。幕府はこれに対し、建武元年(一三三四)後醍醐帝が下した勅許を根拠に、日蓮宗の勝訴とする。この勅許は、日蓮宗妙顕寺を京都法華宗の第一位としたものだ。

 こうして、宗論でも裁判でも敗れた延暦寺と日蓮宗との間で緊張が高まる。

 五月二十三日、法華宗が相国寺に籠もるという噂が流れた。

 右の松本久吉のエピソードがどのくらい真実かは分からない。日蓮宗は、折伏(シャクプク)といって、他宗に宗論を吹っ掛け、論破して過ちを悟らしめる、そういうことをする。折伏自体「折破摧伏(シャクハサイプク)」という厳めしい仏教用語の略だ。

 一向一揆を鎮圧し、大いに教勢を騰げていた日蓮宗が、宗家であり異端でもある叡山僧が説法をしている現場に行き会った。勢い、宗論を仕掛け、説破したのを幸い、袈裟を剥ぐ狼藉を働いた、そういう流れではないだろうか。キリスト教でもそうだが、完全な他教よりも、同じ思想の別セクトにこそ、人は鋭鋒を向ける。

 そういう機微があるから、比叡山も敏感に反応した。六月一日、延暦寺は京都の法華宗を撃滅する決議を出す。翌日、この決定を朝廷と幕府に報告した。叡山は檄文を回し、それは本願寺(浄土真宗)や興福寺(法相宗)三井寺、東寺(真言宗)祇園感神院、根来寺(真言宗)平泉寺白山神社にまで及んだ。それどころか十代目朝倉孝景にまで出兵を要請した。いかに比叡山が、仏教の総本山として自負があったか、ということでもあろう。これらの勢力は、援兵こそ断ったが、中立を約束した。

 

 さてここで、天下の周旋役、六角定頼が首を突っ込んだ。五月二十九日に上洛し、両者を調停する。七月には木沢長政も調停したが、これらは不首尾に終わる。

 

 かくして「天文法華の乱」が始まる。

 

 


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