凶刃
本願寺教団の改革者蓮淳(蓮如六男)山科興正寺住持・蓮秀(蓮如の曾孫)らも加わり、和議について話し合いが持たれる。
「ーー下間兄弟が、こたびの一揆の責任者ということでよいのではないか?」
そういう意見に定まった。妥当だろう。前回の和議がご破算になったのは、下間頼盛の行動だ。
彼らにすべての責任を負わせ、そもそも最初に晴元の要請に応じた蓮淳と証如は不問に付す。
衆議は一決した。下間兄弟に合わせ、その兵力となった畿内や近江の門徒も、ことごとく破門にする。
近江の門徒も、だ。六角定頼、ねじ込んできた。(これで、当分の脅威を除ける)
定頼は、この抗争に、横槍を入れるように干渉しているが、都度、利益を勝ち取っている。一連の戦いで、近江の一向宗の拠点である大津顕聖寺も焼け落ちた。さらに、蓮淳が粛正の一環で近江の衆徒を討っており、南近江での本願寺の存在感は退潮した。
右の条件で、天文四年(一五三五)九月、本願寺は細川方と和議を妥結。
さらに十一月には、幕府と六角氏が、細川氏と正式に和議を結ぶ。
完全に、天下の周旋役になっている。
だが、本願寺の抗戦派は根強く、右の政治的妥協でしかない和議をはねつける。翌天文五年(一五三六)三月、摂津中嶋城に一揆方が籠城。下間兄弟も加わっていた。
(悪いな、下間の)
その摂津中嶋城も、木沢長政が攻め落とした。彼は、下間兄弟とどういうつながりがあったのか、右の和平の際には赦免を願い出ている。長政は本願寺との連絡役であり、坊官として俗務を司った下間兄弟と昵懇だったのかもしれない。
下間兄弟は逐電。
本願寺の、抗戦派にして坊官として権力を握った二人への追跡は、熾烈を極めた。天文六年(一五三七)加賀一向宗に二人の殺害指令が出る。さらに翌天文七年には、刺客が下間頼秀を近江で殺害、その翌年に、頼盛も堺で暗殺されている。
和平のための血祭り、二人の死には、そういう含みがある。
さて、本願寺との抗争は、事実上天文五年(一五三六)に決着している。
だが、ここで、細川晴元は、さらに、呆気にとられてしまう行動に出る。
今度は法華宗を攻撃したのだ。




