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裏方たち

 この状況を受けて、先行きの不穏を感じ取ったのだろう(髙国の衣鉢を継ぐものどもと、本願寺の兵力が結びついておる)

 大義名分があり、それを成し遂げる大兵力もある。ーー情勢をひっくり返される可能性は、十分あった。十二分かもしれぬ。

 晴元は、ここで、和平を検討し始める。

 本願寺側も、宗教界を超えた勢力図に踏み込むことに不安があり、両者は、歩み寄る余地があった。

 ここで、驚くべきことに、三好元長嫡男・長慶が、両勢力の調停に立つのだ。

 ーーいや、そんなことがあるはずがない。やっとで満十一歳の子供なのだ。

 『本福寺明宗跡書』に「三好仙熊に扱(あつかひ、和睦のこと)をまかせて」とある。仙熊は、長慶の幼名だ。

 おそらく、晴元に裏切られた阿波細川家家宰・三好家を代表して、長慶の名が持ち出されたのだろう。実際、交渉に立ったのは、元長弟康長あたりだったのではないか。三好康長は生没不詳だが、享年三十二の元長弟なら、三十絡みか。晴元は恨み募る相手だが、だからといって、三好家単独で対抗しうるかというと難しく、本願寺との和睦を仲介することで、いわば両家の抗争を手打ちとしたのだろう。実際、翌天文三年(一五三四)に、木沢長政の仲介で、晴元と三好長慶が和睦している。

 しかし、それにしても、この流れで、裏切られた当の三好家が仲介に乗り出す、というのは、ずいぶん唐突な展開である。

 将軍の命令として、本願寺討伐が打ち出され、三好家も、この流れに乗らなくては誹り(そしり)を受ける、そういうタームである。

 その上で、六角定頼が動いたのではないだろうか。三好家が積極的になる理由がなく、晴元から和解を言い出してもどの面下げてだろう。

 だが、どの面下げては、本願寺に対しても、同じだった。

 (そもそも、晴元の方から、法華宗退治を大義名分にわれらへ協力を求めたのであろうが!!)

 それが、本願寺の暴徒が羈(キ、手綱、抑制)を離れたとはいえ

 そ(・)の(・)法(・)華(・)宗(・)を(・)使(・)っ(・)て(・)、(・)晴(・)元(・)自(・)身(・)が(・)退(・)治(・)に(・)乗(・)り(・)出(・)す(・)の(・)か(・)!!

 そ(・)れ(・)で(・)旗(・)色(・)が(・)悪(・)く(・)な(・)っ(・)た(・)ら(・)講(・)和(・)し(・)ま(・)し(・)ょ(・)う(・)?

 (ひとを馬鹿にするのもいい加減にしろーーーーーーーーーーーーー!!)

 そういう、至極もっともな憤りが、本願寺にもあったのだろう。

 思わぬ出来事が起こった。

 天文二年(一五三三)六月二十日、三好長慶の仲介で、本願寺と晴元の和睦が成立する。

 

 翌天文三年(一五三四)三月、証如が誘拐されるのだ。

 

 犯人は、主戦派の下間頼盛(ライセイ)

 証如は、頼盛に脅されたか、説き伏せられたのだろう。

 やがて解放されるが、五月二十九日に、和睦を破棄、再び抗争に入る。

 

 この時点では、まだ、長慶と晴元は和睦していない。それどころか、八月十一日には本願寺に加勢して晴元軍と戦い、十月には尼崎で、晴元方の同族三好政長と戦っている。

 (あんな男と手を結べるものかあああああああああーーーーーーーーーーー!!)

 

 作者が俯瞰した限り、このあたりの紛糾は、細川晴元が元凶だと断じてもいいのではないだろうか。

 本願寺も、三好家も、晴元ともめるだけのことをされているのだ。

 

 また陰謀史観かもしれないが、晴元の傍若無人に、その側近に収まった木沢長政の影響を見ることも出来よう。この男、享禄五年(一五三二)の時点で、晴元の被官であり、かつ、彼の歓心を買うために、足利義維擁立派であった畠山義堯(よしたか)を攻撃、河内守護代・遊佐堯家(たかいえ)を殺害した。晴元の尖兵であり、そして、腹心の位置を占めたのではないだろうか。この先、木沢長政は、晴元の動向と不即不離、忠実な命令実践者になる。

 というよりも、この渾身下剋上の男の策謀こそが、そのまま晴元に容れられていたのではないか。

 自分が動かせるありとあらゆる手駒を動員する、木沢長政の悪辣さが、この先の晴元の行動に、そのまま表れているように思えるのだ。

 

 そして、木沢長政が、そういう性格である以上、当然「婿殿」と足利義晴を結びつけようとする六角定頼が目に入る。定頼と、将軍のお下知を背景に、木沢長政が、晴元と長慶の和睦を取り持ったのではないか。

 

 日付は分からないが、この後、長政の仲介で、双方の和睦が成立。ーーよく考えれば、そもそも木沢長政がしゃしゃり出れば、収まる話も収まらなくなる人選だ。

 

 ともあれ、三好家は細川家に帰参し、家臣に組み込まれる。このとき、当主長慶が幼い故に、三好家が罪に問われなかったというから、やはり、政略的に名前を使っただけだろう。

 

 こうして、三好家を味方につけた細川家は、天文四年(一五三五)六月十二日、万全の態勢で本願寺に総攻撃をかける。天文三年末に和睦して、さらに半年が経過している。この間消息がよく分からないが、本願寺勢にとって、戦況が悪化していたのだろう。また、下間頼盛の強請に応じたものの、一旦和議に傾いた一向宗の統率が強固ではなかった、ということもある。

 六月十二日の戦いで、一揆勢は六百人もの戦死者を出して、大敗した。後奈良天皇の日記には「本願寺滅亡」と記されている。

 大勢は決した。

 石山本願寺は包囲され、和平交渉が始まる。

 

 

 


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