聖戦
制御を失った十万もの軍団の暴行に、畿内は震撼した。依然、加賀は一向一揆衆が冨樫氏を傀儡政権化し、実質支配している。本願寺の危険性が再認識された。
細川晴元は、対立していた元長を排し、堺公方も阿波へ追いやった。だが、それ以上の暴力で畿内を荒らし回る一向一揆衆に恐れをなした。
だから、と言われても、正直作者は首をひねってしまう。ーーいままで見えている限りの人物像では、細川晴元、享禄五年(一五三二)八月のこの時点で満十八歳は、どうにも、印象が悪い。
自分勝手な若造、としか言い様がない。
彼は、自分の目的を超えて荒れ狂う一揆軍に恐れを成し、その弾圧に乗り出すのだ。
なにか、歴史がところどころ飛躍している。そもそも出動を要請したのは誰だ、という話だ。自分が突き上げられるのを避けるために、一転して本願寺の非を鳴らした、といった背景が省略されているのではないか?
人間そういう風に動くものか? という飛躍が、ところどころこのタームにはある。きっと、まだ明らかになっていない史実や、偏向されている解釈があるのだろう。
元長、義維を排した晴元は、かねて望んでいた通り、義晴と結びつくことができるようになった。しかし、当の畿内が、晴元が発端となった事件で混乱している、というのはよろしくない。
だから、急遽弾圧へ乗り出した、というのもありそうである。
晴元は、法華宗と手を組み、さらに、かねて領内で一向宗に悩まされていた定頼とも結んで、山科本願寺へ侵攻する。
(若造が。駆け回りよるわ)定頼には、笑止だっただろう。彼はこの時期、将軍義晴を完全に掌握するところにまで至っている。
この「婿殿」と義晴を結びつけるために、いささか恩を売り、関係を深めてもよい。
ーー思えば、勝手に髙国を倒し、堺公方を壊滅させてくれたのだから、願ったり叶ったりだ。
山科本願寺の戦いは、また、発端に木沢長政が居合わせている。天文に改元した天文元年(一五三二)八月二日、まだ、大和で一向一揆衆が荒らし回っている頃だ。晴元が法華宗と手を結んだことを契機に、木沢長政のもとへ、一向一揆衆が押し寄せる。木沢軍は、逆に一向宗の道場や寺を焼き、これに和泉、摂津、大和、河内の一揆衆が蜂起、晴元のいる堺へ押し寄せ、これを木沢軍が迎撃した。一揆衆は堺を取り巻くが、木沢軍はこれを押し戻し、数百人の死者を出した。
八月七日、法華一揆衆も動き出し、東山、山科周辺を打ち廻った。大谷道場(親鸞の廟堂が京都東山大谷にあることから)を焼き、同月十六日には、東山にて法華一揆衆一万と、一向一揆衆数千が激突、一向衆を敗北させ、十九日には摂津方面から押し寄せた一向衆も破る。
日蓮さんもやるものである。
京都一帯を押さえた法華一揆衆は、山科本願寺への攻撃準備を整える。じつに恐るべき布陣図で、主力が、西方粟田口を押さえる法華一揆衆なのだ。細川髙国に暗殺された柳本賢治遺臣・山本正次が一揆衆の一翼を率い、山科本願寺の南方を押さえている。六角定頼軍が東方、大津方面に着陣、ちなみに蒲生定頼も出陣している。その上で、付近の五十余郷の土一揆軍が北側を押さえている。
一揆勢ばかりである。
これで包囲した山科本願寺は『二水記』によれば、こうだ。「四、五代に及び富貴、栄華を誇る。寺中は広大無辺、荘厳ただ仏の国の如しと云々、在家また洛中に異ならざるなり、居住の者おのおの富貴、よつて家々随分の美麗を嗜む」
この荘厳、仏の国を、一揆軍団が包囲している。
時代が変わる。民衆の力。
強烈なメッセージ性をたたえている光景だった。総勢は、三万とも四万ともいわれる。
八月二十四日早朝、山科本願寺の「水落」と呼ばれている場所から、包囲軍が突入した。たちまち火が上がり、社坊一つ残さず焼き尽くされてしまった。
十世・証如は、すでに大阪本願寺に逃れ、無事だった。爾後、本願寺は大阪を本山とする。
山科本願寺が焼失した後も、法華宗と一向宗の対決は続き、九月末には一向一揆衆が京に打入、焼き払おうとするが、法華宗がこれを退け、窮地を逃れている。
世に言う「天文の錯乱」
法華と一向の争闘は、まだまだ継続する。




