続・江源武鑑批判者への批判
媒酌人達の苦労を追っていくべきだが、調べれば調べるほど、だ。書き出しを随想風にするが、司馬遼太郎を読んでいると、次の一文が目に入った。
『和算は周知のように関孝和(一六四二?~一七〇八)という天才が出て大いにひろまったのだが、』 (『司馬遼太郎が考えたこと14』412頁)
和算の天才? 関孝和?
関氏?
『そもそも神戸氏は、伊勢国鈴鹿郡の豪族・関氏から分かれた。関氏は北隣・近江の六角氏に服し、蒲生家とは同僚だった。
六代当主関盛信は、妻に蒲生定秀娘を迎えている。
関氏とその庶家・神戸氏(かんべ氏)は、ともに定秀の息子なのだ。
やはり、定頼─定秀のラインは偉大だ。
そして、この縁が効いて、豊臣家重臣になった蒲生氏郷に、関氏─神戸氏ともども仕えることになる。神戸能房も、この範にいる。』
関氏─神戸氏のラインだ。
『だが、十七世紀の和算家・建部賢明は、これらを「浅智の輩」と切って捨てている。』
【また、江戸時代中期の和算家建部賢明は『大系図評判遮中抄』において沢田源内が
「偽て定頼朝臣の長子に大膳大夫義實(義実)と云ふ名を作り、その子修理大夫義秀、其子右兵衛督義郷三世を、新たに佐々木の系中に建て丶、己れか父祖とし、義賢朝臣承禎をして義秀か後見なりとす」と捏造であると指摘した。】 (ウィキペディア:江源武鑑)
定頼朝臣ではなく、その兄・氏綱の嫡子義実のはずなのだが・・どうも、批判者達は、江源武鑑や六角氏系図認識に誤りがある。氏綱の存在は、江戸期には、すでに見過ごされがちだったようだ。
とはいえ、重要なのは、そこではない。神戸能房同様、建部賢明も、江源武鑑を攻撃した代表的人物だが
「江戸時代中期の和算家建部賢明」
和算の天才、関孝和。
関係があるのではないかと調べたところ、大正解。関孝和の門弟に、建部賢明や、その弟賢弘がいる。この三人で和算の集大成『大成算経』二十巻を著したというから、昵懇だ。 建部賢明は、関氏の愛弟子だったのだ。ということは、彼の江源武鑑批判も、神戸能房と同様、蒲生高郷流による、六角義実流への、御所様への攻撃の可能性がある。
しかし、関孝和について調べると、もともと内山氏族、秀郷流結城氏の出だという。その後、甲府藩勘定方・関五郎左衛門の養子になった。関孝和自身、甲府藩の勘定方吟味役に就いている。
別に、馬頭の鬼の習いであり、血のつながりより系図こそが大切なのだが、悪いことに、関氏には、神戸氏を出した平姓関氏以外にも、秀郷流、それも結城氏から出た関氏がいるのだ。今回は、蒲生氏に仕えた平姓関氏に属するのではないかと見当を付けていたのだから、該当しなかったことになる。
しかし、しかしだ。
数学史学者・大矢真一氏の『関孝和の経歴について』(1958年 関孝和250年祭--「数学」第10巻第3号(1959)から) という稿がある。
そこから引用したいが、注意がいる。どうも、大矢氏は藤原秀郷と記すべき箇所を藤原秀衡(奥州藤原氏)と誤記されているようだ。秀郷流千常系から結城氏が出ているが、奥州藤原氏は千晴系であり、ここから結城氏、関孝和にはつながらない。この点に留意しつつ、引用する。
『関孝和は、その姓をみずから藤原としるしている。この点から孝和の養子となった関家は、藤原秀衡の末流であることがわかる。』作者の限界だ。『そして、藤岡における内山(孝和の本姓)の同輩には、秀衡流の関家が数件あった。孝和が養子となったであろう時代、その中の一軒の当主の通称はたしかに五郎左衛門であった。したがって、孝和の養われたのは、おそらくこの家であろうと考えられたのである。この関五郎左衛門の存在は、諸家の系図を徳川幕府で編纂した〝寛政重修諸家譜〟から見いだされた。』
『ところが、関五郎左衛門の家の系図の発見は問題を解決にではなくて、混乱に導いた。関五郎左衛門には実子があって家を相続しており、その後も引き続いて実子によって家がつがれていて、孝和の養子となる余地はないのである。
もちろん、その系図の中には孝和の名はしるされていない。また、牛込浄輪寺の過去帳には関孝和の養父の法名と没年が書かれている。
これと系図の中の関五郎左衛門の没年とも一致していない。
この点からいって、孝和が関五郎左衛門に養われたという系図の記載は、あるいは記憶の誤りから出たことであるかもしれない。
けっきょく、確かなのは、孝和が関家に養子に行ったということだけで、それがどの家であるかは、まだ明らかにはなっていないのである。』
思わぬ展開だ。数学の日本史を追われている大矢氏の稿が、本稿の曙光になった。
関孝和が、いずれの関氏に属しているのかは、結局、分からないのだ!!
関氏には、秀郷流結城氏、他にも摂津源氏などがある。
だが、もっとも一般的で、おそらく巨大なのは、前述の平姓関氏。神戸氏を出した関氏だ。
関孝和が、かつて蒲生氏に仕えていた関氏に属していた可能性はかなり高い。
そして、その門弟の建部賢明も、師匠から何事かを言い含められて、六角義実流を否定すべく、江源武鑑を攻撃した可能性はないだろうか。
というより、建部賢明自身が、佐々木源氏支流伊庭氏、あの、高頼を苦しめた乱を起こした伊庭氏、その末裔である!!
先祖をたどれば六角氏に仕えている。賢明自身が述べるところによれば、六角時信(一三〇六~一三四六)三男から分かれている。義実流成立以前だが、六角氏だったのだ。
師弟あわせて、かなり利害関係があるのだ。厳密に言えば、建部賢明の主張する先祖は、義実流以前の六角氏であり、無関係なのだが「真の嫡流」が明らかになれば、それ以外の六角氏全体がグレードを落とすだろう。蒲生氏嫡流の血が薄い(佐々木定綱妻しかいない)ことも弱点になる。
そもそも、当然、江源武鑑も、その作者として知られる(生年と江源武鑑の敢行年が符合しないのだが)沢田源内も、定頼流佐々木氏末裔から、猛攻撃されている。沢田源内は、おのれが六角義郷嫡子氏郷だと触れ回ったと言われているが、それを裏付ける史料はない。
ウィキペディア:沢田源内の記事から引用しよう。
・源内の父・沢田喜右衛門は元百姓で、正保4年(1647年)、喜右衛門は武蔵忍藩主阿部忠秋の下司となり、沢田武兵衛と改名した
・小林正甫の『重編応仁記』では堅田村の百姓・仁左衛門としている[2]。沢田武兵衛は徴税を担当し、忍の県令となったとされる
・源内の出生は父が忍に移る前とされる。源内の容貌が優れていたため青蓮院門跡尊純法親王に小姓として出仕し書や詩文を学ぶ。しかし盗みを働き故郷に帰ることになったという
・その後は山伏となり尊覚と号したが、還俗して源内と名乗り、東福門院和子の家司天野長信や大納言飛鳥井雅章などに仕えたが長続きしなかったという
・のち佐々木氏嫡流(六角氏)の佐々木正統「近江右衛門義綱」と称した。承応2年(1653年)に江戸に出て、水戸藩主徳川頼房に自らが作成した系図を献上して仕官を図った。しかし頼房から照会を受けた六角氏の正統佐々木義忠が激怒して源内を殺そうとしたため、仕官を断念し近江に逃亡し六角兵部氏郷と称した
・このため武兵衛は源内と親子の縁を切ったといい、武兵衛の跡は源内の弟・権之丞が継いだ
・その後源内は京都に出て、後鳥羽天皇から代々「中務大輔」の官職を称する権利を賜っているとして「六角中務」と称して活動した
・自らの仲間を佐々木氏の分流であるかのように装った。後に京都で官職を偽証したものを処刑する動きが強まった際、源内は中務の名を捨てて京都を逃亡した
・貞享年間(1684年-1688年)頃には「六角兵部氏郷」と書かれた源内自筆の六角氏系図が作成され、大正年間まで伝わっている
・元禄元年(1688年)頃に数え70歳で病死した。娘が一人おり、民間の医者の妻となったという
なんだ、ずいぶん詳細に偽作者の人生が分かっているじゃないか、そう思われるだろう。ウィキペディアには出典元が併記されている。
右の項目には、すべて、出典元がこう書かれている。
「建部賢明 & 大系図評判遮中抄」
建部賢明とその著作が主張している事跡が、沢田源内の人生として伝わっている情報の限りである。
一応、他にも
「 近江蒲生郡志」
という出典元もある。ただこれは、先の「大系図評判遮中抄」に立脚しているもので、どうにも、本稿の見地では蒲生高郷流の攻撃色を帯びたものに分類するしかない。
【さらに『近江蒲生郡志』が『大系図評判遮中抄』に立論して「六角義実」の実在を否定した。『野洲郡志』は「六角義実」の実在を主張したが、『近江蒲生郡志』が佐々木六角氏研究の教科書とされて今日に至っている。】 (佐々木哲学校『江州宰相義久(義実)』)
眉唾ものなのだ。近江蒲生郡志、とあるが、もちろん蒲生家の本貫である。義実流の実在を否定したい勢力がいてもおかしくない。同じ近江でも野洲郡志は義実の実在を主張しているあたり、示唆的ではないか。「貞享年間(1684年-1688年)頃には「六角兵部氏郷」と書かれた源内自筆の六角氏系図が作成され、大正年間まで伝わっている」この出典は近江蒲生郡志だが、同本の刊行が大正十一年、大正は十五年までだから、ろくに保存されなかったことになる[近江と滋賀県というのは、家系図関係の事件とやらかしがみょうに多い。滋賀県の役所で家系図数百枚を水浸しにしダメにする不祥事があった]そもそも伝源内自筆以上のものは用意できないだろう。そして、源内が自筆したところで、別に彼自身が「六角兵部氏郷」を名乗らなければ詐称者とはいえない。
他にも加賀藩士の佐々木定賢が『佐々木氏偽宗弁』を著し、沢田源内と江源武鑑を批難している。彼は佐々木氏嫡流を自称し『佐々木氏系譜序例』を書いているから、それは、攻撃するだろう。
つまり、江源武鑑と沢田源内を批難する説は、これまで蒲生高郷流と六角義実流を敵対関係に捉える史観がなかったため、さも第三者めかしい顔をしている神戸能房(『伊勢記』)や建部賢明(『大系図評判遮中抄』)が幅を利かせている現状がある。彼らを利害当事者として除外すると、伊勢流有職故実を担当していた幕臣・伊勢貞丈、同じく幕府の儒者・成島司直が批判している。
【『徳川実紀』の編纂を行った成島司直も『改正三河後風土記』の序文で、三河後風土記撰者考というものが掲載され、その中で、沢田源内が『三河後風土記』の撰者であると断定し、彼が江源武鑑・武家系図という書を偽り作り、世に刊行して世俗を欺きたり、と言及している。】 (Wikipedia:江源武鑑)
ただし、この成島司直の『改正三河後風土記』を國學院大學名誉教授の桑田忠親氏が翻刻されたのだが、その際氏は「成島司直は幕府の儒官という立場から、徳川氏の不利となる異説は、すべて虚妄の説として却けている」と指摘されている。どうも、中立性に問題のある人物のようだ。
全般的に、本稿としては、江源武鑑批判者への批判を、こう結論づけざるを得ない。
「そもそも本当に源内が江源武鑑を書いたのか、書いたところで源内が自らを六角氏郷当人と自称したのか確認する手段がない。批判者の大部分は六角義実流に対して利害関係が疑われ、客観性に問題がある」
そして、これだけ攻撃にさらされながら、江源武鑑は元和(一六一五~一六二九)から享保(一七四四~一七四八)にかけて、何度も敢行され、諸系図に採用されていった。
その支持は、内容に真実性があると判断されたからだろう。佐々木哲氏は、沢田源内を、湖西の雄琴村の郷士、六角家の旧臣としている。
ひょうすべ史観としては、沢田源内は、六角氏郷その人ではなく、恐らく江源武鑑の作者でもない。
恐らく、詐称者ではあったのだろう。ただ、六角氏郷を名乗ったのか、それに関係する家臣を自称したのかは分からない。
六角家家中には、当主・定頼や義賢すら下には置かない態度で接する「貴人」がいた。この「貴人」の存在は広くしられていたものの、御上祝、三上流蒲生稲置氏に由来する八幡旗手の権威まで聞き及んでいるのは、各勢力の首長クラスに限られていたのだろう。新約武権神授説は、秘密宗教、カルトだったのだ(内容からすれば当然だが)
やがて六角氏は消滅し、謎の「貴人」も消息が分からなくなった。江源武鑑に書かれているとおり、豊臣秀次に仕えていた可能性もある。だが、この「貴人」の正体についてはタブーであり、六角家の旧臣達もほとんどなにも知らなかった。
江源武鑑が編まれた目的は、仕官だろう。江戸時代初期には、大量の牢人が生まれており、彼らは召し抱えられようと必死だった。
そこで、かつて六角家にいた「貴人」恐らく当時から、貴人、御所様こそが真の六角家当主だという噂があったのだろう。その噂を元に、各地の伝説や事跡を集めて、江源武鑑が発刊された。「貴人」自身は本当におり、神秘性が領民の噂になっていたのだから、話は広まりやすい。近江は諸方に街道が開けていて、そこを通る人間が「貴人」について尋ねられれば、自分たちの知っていることを答えただろう。
こうして、江源武鑑は六角家秘史として、まことしやかにささやかれるようになる。御所様が本当に将軍家の血を引いているか、義稙猶子か、従三位参議か、官位は本当に得ていたように思われるが、仮冒か、まことか、こういった肩書きがますます「真の当主」説を有力にした。
近江の牢人、または、旧六角家家臣は、江源武鑑をタネに、おのれの身分を潤色し、売り込もうとした。六角家は、大名家としてはすでに消滅している。嫡流が前田家に仕えているが、彼らの目に触れることなくどこかの家中に潜り込めると踏んでいたのではないか。既存の定頼流六角家中を「陣代」で片付け、新たに嫡流を創出してフィクションの中で自分の立ち位置を設定すればいいのだから、売り込みもしやすい。
沢田源内も牢人の一人だったのだろう。まさか自らが嫡流当主その人だと公言するとは思えない。派手に猟官活動をしていた沢田の噂を聞きつけ、江源武鑑を攻撃するものたちが話を誇張し、六角義実流そのものが、売名のために創出された家系でしかないと糾弾したのだろう。また、実際、ある程度は売名目的だったのだ。
しかし、江源武鑑には、確かに、表沙汰にはされない秘史も含まれている。蒲生氏郷の裏切り、そして、これから記述していくが、織田信長との関係などだ。これらに心当たりのある人間は当時たくさんおり、こうして、江戸初期を過ぎて、仕官のための売名手段、そのための典拠という役割を終えた後も、江源武鑑は再発刊をつづけ、多くの江戸時代人の史観に影響を与え、系図に変更を加えさせた。
それが江源武鑑が批判にさらされながら、百年以上にわたって読まれてきた事由ではないか。
あるいは、江源武鑑を典拠に仕官に成功したものたちは、あれこそが真の六角家の歴史だと、言い伝えていたのかもしれない。
さて、江源武鑑について一通り評価したが、作者としては、加えて、大矢真一氏の『関孝和の経歴について』に書かれていた文書が気になる。
『けっきょく、確かなのは、孝和が関家に養子に行ったということだけで、それがどの家であるかは、まだ明らかにはなっていないのである。
関孝和の伝記のはじめの部分については、今までのところ、以上のことだけが明らかにされている。
これはすべて三上義夫の研究の結果である。』
三上?
『明治40年(一九〇七年)関孝和の200年祭が行われた時代には、その伝記は相当はっきりしているもののように考えられていた。しかし、それから50年、今日では、関孝和の伝記はほとんど不明であるということが定説になっている。この間、従来行われている関孝和の履歴についての通説のうち、確かでないものを一つ一つ打破して、そこにほとんど信ずべきことがらのないことを、明らかにしたのは科学史家三上義夫であった。』 三上義夫という歴史家が、関孝和の定説をほとんど全部覆し、その成果の一つが、孝和が養子に入った関家が、藤原氏なのかどうか分からない、という結論だったのだという。
三上義夫(一八七五~一九五〇)数学史家、和算研究家だ。大正四年、大学院時代に、全国の和算史の調査を開始した。
三上だと?
一八七五年生まれだから、まだ西南戦争も起こっていない。濃厚に江戸時代が残っている時期、三上氏は成長した。彼は広島県の素封家・三上本家の生まれだという。因幡三上氏だろうか? だとすれば、御上祝と関係があるという説がある。
三上義夫氏の家に、三上流蒲生稲置氏に関する家伝でもつたわっていたのではないか。 そして、作者と同様「関孝和の弟子の建部賢明が江源武鑑を全否定している。それなら、関孝和というのは、蒲生家に仕えた平姓関氏だろう」とアタリをつけて、それが覆されたことから疑問を持ち、深々とメスを入れ、定説を覆すところまで至ったのではないだろうか。
三上流蒲生稲置氏の六角義実流を巡る批判者の係累(師匠)を、三上姓の学究が解明している。
六角義実流の調査には、他にも、こういう三上姓の道標がそっと添えられていることがある。
作者が発見したもう一つは、江戸幕末近くになって、義実流のありかを歴史の闇から照らし出していた。
三上の一族にとっても、六角義実流は、気にかかる家系だったのかもしれない。
そういえば、御上神社のある『野洲郡志』は義実実在を肯定しているのだ。




