屈服
江源武鑑には、蒲生氏郷の裏切りには言及していない。だが、彼に対するマイナス感情は隠していない。
『四日(本能寺の変の二日後)安土在番蒲生右兵衛父子(賢秀と氏郷)信長ノ若公達(わかぎみ達)御臺(ミタイ、御台所、安土城にいた信長一族の奥方)ヲ日野ノ谷ヘ引退奉ル此時(一行を日野城へ避難させる時)蒲生安土ノ番衆ヲイサナイテ(いざないて)観音寺城後詰ニ来ルホトナラハ(安土城の守勢を割いて観音寺城の加勢に来ていれば)光秀ハ討死スヘキニ今ニ不始(はじめず、今度ばかりではない、昔から)蒲生カ大臆哉ト江州ノ侍ハ申ニヤ土民ニ及フマテツマハシキ(つまはじき)シテケリ』
義賢、氏郷父子は勇武をたたえる美辞麗句を捧げられることが多い。だが、ごくまれに、こういう歴史の行間のささやきで批難される。ーー他にも、賢秀が臆病者と有名だと言われている文章がある。
作者も、江源武鑑にすべてが記されているとはかんがえてはいない。佐々木哲氏も、そのブログで、こうおっしゃっている。【『江源武鑑』は一次資料ではなく物語だが、成立時期を考慮すれば史実と無関係なものと見なすことはできない。たしかに記述は曖昧なものだが、資料と付き合わせて慎重に扱えば多くの史実を比喩的な記述の中から引き出すことができる。】まったくそのとおりだ。
この場合、抜き出すべきは
・蒲生氏郷の手のものが城に火を掛けた、裏切った
・蒲生父子に対する悪感情が当時の江州には渦巻いていた
という二点に思える。後にわが子を「秀行」と名乗らせることをかんがえると、この裏切りは、新庄某の個人的犯行ではなかったのだろう。
なぜ、氏郷が、本能寺の変の直後に、六角義郷を裏切ったのか?
いよいよ、このことに言及しなければならないわけだが
当時、織田信長が、義実流の最大の庇護者だったからだ。
彼が没すれば、御所様は政治的にも無防備になる。高郷流蒲生氏が逆転の一手を打つには、このタイミングをおいて他にはなかったのだ。
まあ、このあたりのことは、今後【信長編】で取り扱う。
蒲生氏嫡流は、高郷流に奪われてしまったわけだが、そもそも、義実流も、義秀から義郷、氏郷、と「郷」の字を入れている。元来蒲生氏嫡流当主に「郷」はいない。高郷流以来、氏郷(一五八五年までは賦秀)秀行─忠郷─忠知となる。
つまり、御所様は嫡流でありながら、高郷流の名前を名乗っており、この点、矛盾する。
しかし、六角義郷は、一五七七年一月の生まれなのだ。本能寺の変の際、満五歳であり、当然、幼名だっただろう。
彼が元服する時には、すでに、氏郷が豊臣家重臣に収まり、堂々と本家に成り代わっていた。会津九十二万石の巨大大名に氏郷が成長した時(一五九一年)やっとで満十四歳、ちょうど元服する年頃だ。
蒲生家宗主は、氏郷になった。
その事実を認めるしかなかった、いや、これ以上嫡流を名乗るのは危険ですらあった。大国を統べる高郷流を敵に回すことを意味するから、彼は、義郷と名乗ることにしたのだ。




