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氏郷の野望~造反録~

 まるで、高郷流蒲生氏郷が、元来主筋で、嫡流である義実流を攻撃していたかのような言辞だが、作者はそうかんがえている。蒲生氏郷は、秀行流を排し、高郷流が蒲生氏嫡流であるかのように、粉飾したのだ。

 これは、一気に天正十年(一五八二)の記述に飛んでしまうが、江源武鑑に、こうある。

 『天正10年6月3日、信長を本能寺の変で討った明智光秀が六角氏居城の観音寺城を攻め、これにより観音寺城は炎上した』

 観音寺城についても、これはなかなか不思議な城で『武家家伝』六角氏の項に、こうある。

 『さらに、六角氏が居城とした観音寺城の存在が、六角氏の歴史に大きな謎を投げかけている。 というのは、近江を制圧した織田信長は観音寺城とは目と鼻の先にある安土山に安土城を築いた。その工事に際して 石仏までもが石垣に転用されていることから、当然、観音寺城の資材も転用された可能性は高く、 城址は破壊されたものと思われていた。ところが、田中政三氏らの発掘調査によって、観音寺山の樹木のなかより 総石垣造りの観音寺城が姿を現したのである。結論として、観音寺城の石垣などは安土城に転用されていなかった。』

 信長が六角氏攻めを完了させた後も、観音寺城には手を付けていなかったのだ。

 さて、再びウィキペディア:六角義郷の項から江源武鑑の内容だ。

 『その後父が没した後の天正10年6月3日、信長を本能寺の変で討った明智光秀が居城の観音寺城を攻め、蒲生氏郷の配下が寝返ったため観音寺城は炎上した。この際父の側室である若狭局は武装して義郷とともに馬に乗り、箕浦城に逃れた。これにより六角氏の名に従う旗頭は十分の一ほどになったという』

 観音寺城を攻めた明智光秀に対し、蒲生氏郷の兵が義郷の守備についていた。これが寝返り、城は陥落、六角義実流の没落を招いた、とある。『蒲生氏郷カ家人新庄ト云者光秀ニ頼レテ箕作(箕作城)ノ方ヨリ三ノ丸ヘ入テ火ヲカクルニ』が原文。この新庄なる武者の独断か氏郷の合意あっての裏切りか明記されていないが、以後の氏郷の行動からすると、彼も関わっている造反だろう。

 まず、蒲生氏郷は、この時期、既存史観では北陸方面の柴田勝家軍団に与力している。しかし、本能寺の変が発生すると『信長が本能寺の変により自刃すると、氏郷は安土城にいた賢秀と連絡し、城内にいた信長の一族を保護し、賢秀と共に居城・日野城(中野城)へ走って乗物50丁、鞍つき馬100頭、伝馬200頭を支度して明智光秀に対して対抗姿勢を示した』と、ウィキペディア:蒲生氏郷の項にはある。出典『蒲生氏郷』今村義隆氏。

 さらに同項に『光秀は明智光春、武田元明、京極高次らに近江の長浜、佐和山、安土の各城を攻略させ、次に日野攻囲に移る手筈であったが、直前に山崎の戦いで敗死した。』とある。

 既存史観でも、氏郷は近江におり、明智光秀の軍団に対抗している。

 ーーその彼が、新庄ト云者を使って観音寺城を焼いたのだ。

 動機はある。蒲生氏嫡流を高郷流に固定するためだ。江源武鑑と付き合わせれば、安土城を光秀方が攻めた際、近傍(二、三㎞ほど)の観音寺城にも取りかかり、氏郷勢が守勢に加わっていたが、これが、裏切った。

 

 作者は、この筋で間違いないとかんがえている。氏郷が、六角義郷を裏切ったのだ。

 

 なぜなら、氏郷に、翌天正十一年(一五八三)嫡男鶴千代が生まれている。

 

 この鶴千代が元服し「蒲生秀行」を名乗る。

 

 蒲生秀行は二人いる。高郷の兄、蒲生氏嫡流の秀行。

 蒲生氏郷の嫡男秀行。

 ひょうすべ史観で江源武鑑を読み解くことが前提になるが

 

 嫡流を奪った。

 

 その堂々たる勝利宣言であろう。

 

 

 


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