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母義澄妹 父義稙

 しかし、媒酌人の苦難はまだまだつづくのだ。等阿弥の近江侵攻が、永正七年(一五一〇)二月だ。

 翌永正八年(一五一一)八月十四日、義澄は没するのだ!!

 おそらく、証文だけもらって、嫁御を得たかどうかのタイミングで、義澄の体調が悪化していったのではないか。

 (こちらの将軍は、外(・)れ(・)だ!!)媒酌人は、愕然としただろう。と、なれば、もう義稙陣営の勝利は見えている。

 氏綱に、義澄妹、少なくともそういうことになっている女性をもらった。だが、その事実を公表しないまま

 高頼は、義稙への接近を開始した。

 (右兵衛入道が裏切るのか?)義稙は驚いただろう。・・しかし、義澄の死には暗殺説もあるのだ。嫁の有力な兄を葬るのはおかしいが、近江御所にいる義澄と京都の義稙とでは、義稙の方が優勢だとかんがえ、高頼が裏切った可能性もある。ーーなにやら、えらく佐々木道誉の末裔らしいムーブになってきている。

 二万もの大軍を壊滅させたことで、近江御所の意気は騰がり、阿波衆を率いて、澄元軍が押し寄せた。彼らは、京都を落とし、義稙や義興、髙国らは丹波へ撤退した。防衛に適したこの山里で形勢を立て直す内に、義澄の死が聞こえてきた。

 高頼が手を下していそうだ。

 だが、伝奇的に過ぎるのもどうか、だ。病死だったということにする。これで意気を揚げる義稙軍が入京し、船岡山合戦になる。大内軍が奮闘し、澄元軍は総崩れになった。戦死者三千人とも五千人ともいわれる記録的大敗で、この一戦で、近江御所は壊滅した。

 

 どこかあいまいにぼやけていた畿内情勢が、なにやら可視的になってきた。重要なのは、義実流六角氏の存在で、江源武鑑を容れ、ひょうすべ史観も合流することで、ずいぶん説明可能になってきている。

 別々の経緯で展開させていた陰謀史観が、ある一点で思わぬ一致を見る。当方は四信六疑、江源武鑑も少数ながら現代でも真実性があると信じておられる研究者がいる。

 謎に包まれた畿内と六角氏の真相が判明しつつあるのではないか?

 

 右の経緯から、細川澄元も三好之長も近江御所を去り、さらに、近江侵攻を控えたプレッシャーから、義澄を妥協させ、その妹を嫁に迎えた。

 そういう風に読み解いたわけだが、どうも、この鼻薬、予想以上に効いたのではないだろうか。ひょうすべ史観も掘れば掘るほど何か出る魔窟だが、江源武鑑も真実性を検証すると伏魔殿だ。

 面白い事実に気づいてしまった。先に『なお、義澄は「武衛娘」という継室を娶り、武衛娘は斯波氏娘という説が有力視されているが、六角高頼娘という説もある。』

 と記したが、案外、本当に、義澄の継室は高頼娘かもしれない。

 足利義晴は永正八年(一五一一)三月五日、近江蒲生郡水茎岡山城で生まれている。つまり、近江御所で生まれた義澄長男だ。幼名は亀王丸(かめおう丸)

 六角氏綱もまた、幼名が亀王丸なのだ。

 六角高頼の幼名は亀寿丸。定頼や義賢・義治は幼名不明だからなんとも言えないが、高頼の父や祖父に遡っても「亀」の幼名は確認できない。

 高頼─氏綱が「亀」・・どうも、六角氏嫡流「真の嫡流」に亀の幼名が受け継がれているような気がする。

 少なくとも、義晴の幼名が当主だった氏綱と同じなのは、当時世話になっていた六角氏に義澄が忖度した結果だろう。思ったよりも、義澄が六角氏に遠慮していたことがよく分かる。

 すると、案外、その継室も、本当に高頼娘なのではないか。高頼は右兵衛入道という別名があるが、兵衛の唐名は「武衛」であり「武衛娘」というのは高頼娘のことではないのか、と佐々木哲氏が主張されている。この幼名の一致を見ると、十分ありそうに思える。もともと、義澄の愛情生活は義晴生母である「阿与」によって満たされている。ただの身分だけの継室なら、万事遠慮しがちで、相手方に殺し屋を差し向けるおっかないホストの娘を入れるのもあり得そうな話である。

 そしてこれは、まだ定説の位置を得ていないようなので言及していなかったが

 足利義晴が、じつは、義稙と猶子縁組みをしていた、という史料が存在しているのだ。『管別記』『二水記』『足利家官位記』だ。

 義晴、亀王丸は、永正八年(一五一一)六月、つまり、生後三ヶ月にして、播磨の赤松氏に預けられている。これは、当時義稙に内通している疑いのあった高頼を警戒しての措置だという(西島太郎氏が提唱)

 遠慮されている一方で、警戒されてもいたわけだ。義澄の目から見た高頼は、よほど危険人物だったようだ。さもありなん。

 その後、赤松氏は、船岡山合戦に勝利し、唯一の足利将軍となった義稙に屈服する。この時、赤松氏のもとで養育されていた亀王丸(義晴)が、義稙の猶子になったというのだ。

 この説を採用すると、晩年になっても跡継ぎのいないまま、どこ吹く風でいた義稙の心境が理解できる。

 (亀王丸でいいだろう)

 と、こだわりなく、そうかんがえていたのだ。まあ、正室なく、側室も一人という身の上からは、京都と正規の大将軍の立場を奪還することのみに偏していた人生を感じ取れる。そうして大望を果たしてみれば、もう適齢期どころではなく、跡継ぎについてはだれでもいい、という、そんな心境だったのかもしれない。

 目的を果たしてはいるわけだが、義稙の人生は、どこか、寂しい。

 放浪者だ。

 ともあれ、亀王丸を猶子にしていた、となると、義澄妹と氏綱との間に生まれていた義実を猶子にするのは自然の情である。二重の意味で、従弟同士ではないか。亀王丸の生母は下級侍女の阿与だが、系図上は武衛娘(高頼娘)であり、父親は義澄なのだ。

 (猶子同士の兄弟というのもよかろう)二人は、一つ違いで歳も近い。待遇に格差を設けるのは心苦しい。高頼から義実の素性を打ち明けられた義稙はそう思ったのではないか。

 だが義稙は幕府の柱石を四大名(義興、髙国、畠山尚順、畠山義元)に定めている。ここに近江御所を擁していた高頼が、義稙猶子を当主としていただくとなると、軋轢が生じる。

 四大名並立制は傍目にも明らかで、四者の均衡に義稙が心を砕いているのも明らかだった。

 しかし、義実を義稙猶子にしたい高頼としては、その点で妥協し、結果、氏綱の没後、家督は定頼に移った。その後、かねてからの予定通り、高頼は蒲生秀行娘を義実へ妻(め)合わせる。

 将軍猶子でありながら嫡流ではない御所様の誕生だ。その後、武権神授説勢力との侃々諤々を避けるため、将軍猶子でありながら義実流は表に立たず、権威として当主である定頼の行動の権威付けになる。

 義実の存在は、近隣にしられていて、六角氏の実力を底上げした。つまり、等持院の戦いの際、近江に逃げてきた髙国を定頼が助けたのは、重大な暗喩を備えている。

 (すわ!? 六角家の御所様が、京都に討ち入りされるぞ!!)

 そういう意味合いもあり、まさか六角将軍は成立しないだろうが、それに準ずるものが成立する可能性はある。だから、美濃の土岐頼武、越前の朝倉孝景、若狭の内藤氏・・彼らが与力し、大軍団を供出したのだ。

 ようよう、髙国の奇跡の巻き返しが説明できるようになってきた気がする。

 『なお、公卿の官職・位階に昇った人物は「公卿補任」に掲載されるが、六角氏の人物が公卿として掲載された例はない。』

 とあるが、これに関しては、作者は、完全に陰謀史観だが、江戸時代初期に、記録の抹消が行われた可能性もあるとかんがえている。危険ではないか。徳川家は、特に日野家や八幡神族を厚く擁護した形跡が今のところは見当たらないが、新田支流を自称している。つまり、足利家の支流である。

 徳川家は、八幡旗手への対応に苦慮していた節がある(特に、蒲生氏が根拠地とした製鉄の聖地・日野については頭を悩ませたのではないか)全体としては、既往の武権神授説をゆるやかに肯定していた政権であり、そこに、八幡旗手の〝御所様〟が復活されると大変な混乱になる。だから、その存在自体を抹消しようとしていてもおかしくはない。ーー藤原秀郷の妻は「秦氏娘」「源通娘」しかいないにも関わらず、子供たちの母親は藤原千常(母源通娘)とされ、残る兄や姉は(母不詳)で統一されたことを思い出されたい。

 不都合な存在は抹消される。

 

 

 


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