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六角義実流蒲生氏嫡流也

 蒲生対い鶴御所・・六角氏影の嫡流。

 それは、蒲生氏だ。

 

 ここで、さらに、一歩、推理を進めよう。先に述べたとおり、元来の蒲生家嫡流は、秀行─秀紀であり、高郷流は、ここから分かれた傍流だ。

 六角氏が蒲生氏を服属させ、高郷とともに秀紀を屈服させた(後に毒殺、秀行流断絶)

 

 それならば、この元来の蒲生氏嫡流から、娘をもらえば良いではないか。

 そうすることで、元来、佐々木定綱の時代に蒲生惟賢娘をもらっていた佐々木氏流六角氏は、再び、蒲生氏嫡流の血を新鮮なものに入れ換えることができる。

 そうすることで、高郷流蒲生氏よりも、さらに高い位置で、三上流蒲生稲置氏に君臨できる!!

 これも疑問だったのだ。定頼は、どうして、蒲生定秀に左兵衛大夫(五位相当)の官職を授けるのに留まったのか。従五位下で、江戸時代なら国持大名級だ。六万石程度の大名である蒲生家には破格だが、蒲生対い鶴御所の旗印としては寂しい。

 定頼自身も、従四位下弾正少弼だ。

 だが〝御所様〟を規定するのなら、話は簡単だ。もっと優遇すべき権威が存在したからだ。

 

 蒲生秀行の子供には、記録上、秀紀と女子のみが残っている。秀紀の子供は伝わっていない・・家系を上塗りするように、高郷娘が嫁いでいる。

 蒲生秀行娘。

 

 これが、蒲生氏嫡流を伝える媒介として、六角氏が迎えた嫁ではないのか。残念ながら、蒲生秀行や秀紀の生年が分からず、父貞秀も享年が明確ではなく、従って生年不詳だ。

 秀行娘の年齢は分からない。

 当時蒲生家の進退は、秀行高郷兄弟の父、貞秀が握っている。彼が没するのが永正十一年(一五一四)三月五日だ。

 その後に、秀行娘は氏綱か義実に嫁ぎ、蒲生対い鶴御所〝御所様〟たる由縁になったのだろう。

 氏綱は、永正十五年(一五一八)七月に没する。どうも、永正十三年(一五一六)頃には、京都で受けた矢傷がもとで伏していたらしいから、彼は、秀行娘と縁組みをするのは難しいだろう。

 恐らく、義稙の猶子、という意味を強調した「義実」という名を持つその子が、秀行娘を娶ったのではないか(年上の妻になったことだろう)

 では、江源武鑑の義実の記述を追ってみよう。

 『天文10年(一五四一)9月3日、当時の当主六角義実が、将軍の足利義晴より北陸道管領、三位権中納言に任ぜられている。

 義実は当時四位参議と、すでに公卿であったとされる。義実は諸侯を従三位中納言まで任ずる例がないとして辞退したが、「本来なら二位内大臣に匹敵する功があった」とする義稙の強い意向で、口宣案なしに中納言に任ぜられたとされる。

 21日には朝廷より中納言任官の勅使が幕府のもとに来たが、義稙は綸旨を返却したという。

 なお、公卿の官職・位階に昇った人物は「公卿補任」に掲載されるが、六角氏の人物が公卿として掲載された例はない。』  (ウィキペディア:江源武鑑)

 口宣案(クゼン案)は、天皇の勅旨を直接拝領するものに伝える文書だ。義稙はこれを省略して義実を三位中納言に任官、朝廷からやってきた勅使が授けた綸旨も返したという。[この義稙というのは誤記か。義稙は没している。義晴に読み替えるのが適当か]

 なにか、証拠が残らないようにしている『江源武鑑』作者の作為を感じる。

 ただし、本稿作者は、義実が、佐々木氏系図にある通り、従三位参議に任じられたのは、十分あり得るとかんがえている。当時、蒲生対い鶴御所は、朝廷にそれだけの待遇を要請できる立場にあった。

 

 いったん、足利─近衛体制を築こうとする媒酌人たちの苦難に戻ろう。義澄が没し、室町将軍は義稙一人になった。しかし彼は結婚にも猶子や養子縁組にも乗り気ではない。四大名並立制のパワーバランスに配慮しつつ、阿波の澄元と同盟していた赤松氏を服属させる。大和へ侵攻し、足利家の領地基盤を手に入れ、応仁の乱以来諸国の年貢が入ってこなくなっているなか、直属の勢力を増やそうとする。

 本当に足利将軍家というのは天領に該当する版図が小さい。室町幕府の制度と、それまでの征夷大将軍とは一線を画する権威で諸侯の上に君臨してきたが、彼らを股肱にする秩序が失われれば、それこそ、手足をもがれたように無力だった。

 大小無数の勢力の合意と臣従で成り立っていた室町時代は、あれだけ紛争に明け暮れていながら、やはり、幕府体制の輪郭が最後まで鮮明だったのだろう。

 そうこうする内に永正十四年(一五二七)十月となり、在京十年に渡っていた大内義興は、将軍が有馬温泉に湯治へ赴いた隙を衝くように、京を出奔、義稙は引き留めたが、ついに周防に帰ってしまう。分国を留守にしている間、尼子氏が蠢動し、危険な状態になっていたのだ。

 すると、早速阿波の澄元が動き出し、将軍は赤松氏に鎮圧を命じる。この時、義稙は満四十九歳だ。

 (もう無理だ)媒酌人たちは音を上げていただろう。柴田勝家などは、五十過ぎでお市の方をもらったわけだが、子供はいない。

 そして、永正十六年(一五一九)十一月、ついに、細川澄元と三好之長が上洛を開始。之長が心理分析と持ち前の辣腕を発揮して、畿内の戦況を切り回し、翌永正十七年(一五二〇)三月末、三好之長軍が入京を果たした。

 (わしにつれなくしてくれた都が、今はわが足下に横たわっておるわい!!)

 京兆家家督や管領の座を争う澄元の侵攻に、髙国は近江へ逐電。この動きに義稙は同行せず、彼は見捨てられた形になった。

 

 (なんと、髙国がわが元へ逃げてきたか)

 

 定頼は、呆然としただろう。本来、将軍から切り離された髙国には価値がない。

 (ーーーそうでもないな)定頼は考え直しただろう。髙国は朝廷で顔が利くし、徳大寺家を通じて近衛家ともつながっている。

 

 (ーー逆王手ではないか?)

 

 天啓が舞い降りた。髙国を支援して、京都の支配を奪還すれば、一挙、六角氏と近衛氏が将軍を擁立する体制が確立する!!

 あの番兵のようだった大内義興も今はない。

 蒲生対い鶴御所が成立する!!

 『(よかろう。大いにおごってくれよう)定頼は、勢い込んだだろう。

 (髙国殿を中心に、新政権を樹立する。その中枢にいるのは、八幡旗手・六角氏だ!!)

 土岐頼武(美濃守護)

 十代目朝倉孝景(越前守護)

 内藤貞正(丹波守護代、守護職は京兆家)

 彼らも応じ、四、五万という大軍が集まった。

 これは、細川髙国の救援ではない。彼を中心に、三上支流蒲生氏を後ろ盾に義稙政権を乗っ取る、クーデターでもあったのだ!!

 そして、この参加者・・スクロールアウト同盟ではないか。

 土岐氏は、後戸の客には数えられないものの、頼武は朝倉氏娘を娶っている。

 十代目朝倉孝景は、母親が利仁流斉藤氏であり、朝倉氏は息長水依姫の夫・日子坐王(ひこいます王)を祖先とする。

 内藤貞正は秀郷流千晴系内藤氏だ。

 

 (奪取(と)るぞおおおおおおおおおおおーーーーーーーーーーーーー!!)

 

 彼らは、新たな旗印を掲げ、八幡旗手のもと、八幡神族に牛耳られた秦氏政権へ、反旗を翻したのだ。』

 この旗揚げには、実際には、近衛流の後援、という報酬も約束されていたのだ。

 

 

 それでも、四、五万の軍団を掻き集められるか、というのは不安が残るところだ。ーーしかし、ここまで書いてみて

 (案外、本当に義澄妹が氏綱に嫁ぎ、義稙が義実を猶子にする可能性もあるのではないか)

 ということに気づかされた。

 義澄は、永正五年(一五〇八)四月十六日に京都を脱出し、高頼の庇護に入る。永正六年(一五〇九)閏八月に、如意ヶ嶽の戦い(近江御所の京都進軍。三好之長や細川澄元が三千の手勢で如意ヶ嶽まで進んだが、二万から三万の大軍に包囲され、敗走する)で敗れた澄元が、阿波に帰っているのだ!!

 之長もこれに従っている。義澄は股肱を失い、高頼を頼るしかない状況に置かれた。

 これで、よほど、義澄に頼られたのだろう。同年十月二十六日、いかにも高頼がやりそうな事件が起こっている。

 「夜討の上手」円珍による、義稙の寝込みの襲撃だ。円珍は、義稙の着衣、その首の辺りを叩き切り、烏帽子を落とした。だが、おそらくのけぞって避けたのだろう、義稙が燭を消して、闇になり、烏帽子を落とした際に首を落としたと誤認した円珍が去った。

 その後、近江で「京の公方めは討ち取りましてございます」と報告したらしいから、義澄の狂躁は想像できる。

 「ようやってくれた右兵衛入道(高頼)!! 御敵はのうなった!! 帰京はすぐそこぞ!!」

 だが、実際には、義稙は無事で、この一件への報復で、近江への進軍を計画する。

 この時、近江侵攻を担当したのが、髙国なのだ。

 

 実際に近江攻めの指揮官になったのは、髙国の側近・等阿弥という人物だ。

 二万の軍勢を集めたというから盛事である。大徳寺家を通じて髙国の動きを知ることができる近衛家は、この侵攻作戦をいち早く高頼へ報知したことだろう。

 「二万とな!?」

 石高で言えば、八十万石相当の兵力供出だ。京極氏もいれば浅井氏も盤踞する近江を領している限りの高頼が、支えられるかどうか。

 (なに、鈎の陣といい、以前に義稙めに討伐された時といい、大軍相手は慣れておる)

 いざとなれば、水茎岡山城も観音寺城も捨てて甲賀に逃れればいい。あの地には、同心した佐々木源氏末裔の五十三家がいる。

 しかし、ここで、高頼は、深刻な顔をしたのではないか。

 「不肖、四郎(高頼)めは、これまで義稙と軍(いくさ)場での縁が重なり、一勝一敗にございます。しかし、こたびは何分大軍が相手のこととて、国人衆が奮わねば勝利はおぼつかぬこと」

 「ーーお主しかおらぬのだぞ!! 右兵衛入道!! どうにかせよ!!」

 「しかれば・・」心中、ほくそ笑んだであろう。「それがしのみならず、畏れ多くも公方様のお力添えも仰がねばなりませぬ」

 

 おそらく、以前も、それとなく、義澄に対し、氏綱と将軍家との縁組みを打診したのだろう。しかしながら、不首尾に終わり

 こたびは、頼れるものは高頼以外になく、しかも、二万の軍勢が近江御所を攻め潰そうとする風前の灯火だ。

 (通(・)る(・))

 ここで、押し通す。義澄は娘がいないから妹を、それがおらねば、義澄が妹だと太鼓判を押す適当な娘を、嫁にもらう。

 「氏綱めが畏れ多くも将軍家御縁戚の栄を賜れば、国人衆が歓喜し、力を尽くすのは請け負いまする。残念ながら、四職の京極家と勢を分かつのが近江の現状にございますが、将軍家と縁続きになった愚息めが呼びかければ、京極家に味方する国人衆も、争って馳走することとなりましょう」

 「!!」

 義澄は、瞬時、躊躇した。ーーしかし、危急存亡の折だ。

 肯いた。

 

 この時、別に輿入れをする必要もない。太鼓判さえもらえれば、問題はないのだ。

 こうして、果たして、本当に義澄妹かどうかは分からぬが、少なくとも花押入りの折り紙付きで「義澄妹」を嫁に迎えることができたのだろう。

 蒲生対い鶴御所にとって、画期になった。この時点では、蒲生貞秀が気を吐いており、蒲生高郷と擬制親子になっている限りである。あとは、佐々木源氏はそも息長氏の祖であるという氏神信仰によって甲賀衆を引っ張ってきたのだが、そこに、将軍家縁戚という栄冠をいただくことになったのだ!!

 (あははははははははははーーーーーー!!)

 次々と祝いに訪れる国人衆を応接しながら、高頼は心中哄笑していただろう。

 媒酌人はここに、将軍家に、系譜をつなげることに成功したのだ。

 

 こうして、約言通り大いに奮起した国人衆によって、等阿弥率いる近江征伐軍は、壊滅させられた。

 (蒲生対い鶴御所は、まさしく、御所様を迎えたというわけじゃ)

 その神聖を担保する三上流蒲生稲置氏の嫁はもらってはいないが、足利将軍家から嫁を得た。

 ここから、逆転劇が始まるのだ。

 

 そう、確信していたことだろう。

 

 


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