陰謀と真相
『定頼は、よくかんがえれば、蒲生定秀その人よりも、八幡旗手としては貴胤なのだ。なんとなれば、蒲生家の嫡流は、定秀やその父・高郷ではない。高郷兄秀行のラインだ。
定頼や、その父高頼は、蒲生氏の嫡流移動に協力した。
それでいながら、自身は、佐々木定綱(一一四二─一二〇五)というはるか以前に、蒲生惟賢娘という嫡流と縁付いている。
系図で繋がる秦氏の習性、この事実は、蒲生対い鶴御所の、微妙なパワーバランスに作用していたかもしれない。
日野家としては、苦しい状況だろう。桂川原の戦いで三好元長・細川晴元軍に討たれた日野内光の嫡子晴光は、ようやく元服したかどうかという年齢だ。
定頼の代に、かなりのところ、室町幕府の闇将軍は、八幡神族から、八幡旗手へ、移り変わったのではないだろうか。』
右のような理屈で自分を納得させていた。ーーだが、ずっと、疑問ではあった。
なぜ六角氏は、蒲生氏娘を娶らなかったのだ?
三上流蒲生稲置氏を生き神に、氏神信仰の新宗派を立ち上げる。蒲生家は、元来六角家に対し客将の立場を崩さなかった。それが六角家に服属するようになったのは蒲生高郷の代だ。
高頼は、彼に「髙」の字を与え、擬制親子にした。その後、兄秀行の遺児秀紀と抗争する高郷を定頼が助け、秀紀降服後、高郷流を蒲生氏嫡流とした。以後、高郷流は蒲生家に仕え、定秀(定頼)賢秀(義賢)と、代々六角当主の偏諱を授かった。
ここまでやるのなら、いっそ、蒲生氏娘を娶れば良いではないか。
三上流蒲生稲置氏の血筋を六角家に取り込むことで、自身が、蒲生対い鶴御所の本尊として君臨すれば良いではないか。
ちゃんとやっていたのだ。
だが、依然世の中は武権神授説で運営されている。この世情にあって、当主自らが高々と新約武権神授説を掲げれば、最悪、第三次六角氏討伐を招きかねない。
だから、沈黙した。
沈黙の下で、蒲生対い鶴御所の〝御所様〟を成立させていた。
それが、六角家義実流だ。
六角満髙(一三六五~一四一六、八代当主)─満綱─持綱─久頼─高頼─定頼─義賢─義治
代々の六角氏当主だ。読者諸氏も、うすうす感じられていたのではないか?
これらの当主の名前の中から、どうして「義実」「義秀」「義郷」が出てくるのだ?
名前に用いられているのは「満」「髙」「綱」「頼」等だ。
どうかんがえても、義実流の当主の名は異質である。義実はまだわかる。義は足利将軍家からの偏諱であり、猶子親とされる義稙の「稙」は成熟の早い稲や、早期の田植えを意味する。「実」は「実る」であり、猶子親義稙との続柄を重視した名前として成立する。
だが「秀」というのはなんだ? 一応、佐々木氏にまで遡れば、佐々木秀義(一一一二~一一八四、佐々木定綱の父)がいる。その他には、秀義の子に厳秀なる人物がいるが、これは法号である。なんにせよ、四百年以上前の当主から名前を持ってくる理由などない。
「郷」に至っては何をか言わんやだ。佐々木源氏のどこをひっくり返しても「郷」の字は見当たらない。
蒲生貞秀(一四四四~一五一四、十四代当主)─秀行─秀紀
蒲生高郷(秀行弟)─定秀─賢秀─氏郷─秀行─忠郷─忠知(忠郷弟)
蒲生家断絶に至るまでの系譜だ。
もうお分かりだろう。
六角氏義実流、沙沙貴神社にその系図が納められ、六角氏嫡流として伝わる代々の当主は
どうかんがえても、蒲生家の人間の名前なのだ。
「義」の一字を拝領した、蒲生家の人間・・そうとしかかんがえられない名前をした連中が、六角家の真の嫡流としてまことしやかにささやかれているのだ。
これこそが、蒲生対い鶴御所が実在していた、なによりの証左なのではないか。
少なくとも、近江国は、六角氏当主をも揺り動かす、真の嫡流が存在した。
彼らは蒲生家の人間であったという、なによりの証左ではないのか。
義実─義秀─義郷とつづいたその次に至っては「氏郷」だ。六角氏郷。一応、氏綱と義郷の名前から取ったといえないこともないが、いや、どうかんがえても、氏郷といわれれば蒲生氏郷であり、蒲生家の人間の名前だろう。
蒲生対い鶴御所の〝御所様〟
まごうことなく、彼らは、蒲生家から六角家に迎えられた血族だったのだ。




