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陰謀の交差点

 (ど、どっちが勝つのだ)媒酌人は、やきもきしていた。京都は、思わぬことに、十代義稙と細川髙国が領した。十代義澄は、先に甲賀に逃げていた澄元・之長とともに六角氏の支援を受け近江御所を立ち上げる。

六角氏が将軍家を支えているわけだが、全く喜ばしくない。

 (どうすればいい?)こんな状況で重大な政略婚に踏みきり、婿殿が敗者に落ちれば、それは、近衛流の凋落を意味する。ーーそもそも日野家が現在の位置に立たされたのは、何百年も前の政変(薬子の変)で喫した敗北が尾を引いているからだ。うかつに身動きは取れない。

 義澄妹と氏綱との縁談がまとまるとしたらこの時期だ。だが、この婚儀に関しては、作者は懐疑的である。確かにもらっていてもおかしくはないが、将軍妹との婚儀となれば事は重大で、義澄と高頼の仲が三年間の近江御所での暮らしでそこまで深まっていたかどうか、確信がない。

 むしろあり得るのは、義澄は急逝し、彼の出身である堀越公方自体が足利茶々丸によってすでに亡んでいる(一四八九)この縁と期間を根拠に、不詳である氏綱妻を義澄妹に仮冒する・・馬頭鬼がよくやる手立てを講ずるのはありそうだ。それを思えば、氏綱二男義政が、足利支流仁木氏を継いでいるのは意味深である。系図さえ繋がっていれば問題はない。

 なお、義澄は「武衛娘」という継室を娶り、武衛娘は斯波氏娘という説が有力視されているが、六角高頼娘という説もある。

 近衛陣営は、この間、細川髙国が徳大寺家と縁続きなのを意識していただろう。德大寺維子と近衛尚通の結婚は一四九七年の時点で成立している。

 (とりあえず、髙国との縁故はある。しかし、あったところで・・)

 難しいところだ。髙国が仕える十代義稙は、すでに四十歳になっている!! 当時の感覚では晩年期に入りつつあり、正室は不在ながら、縁談を進めるのも難がある。どちらにしても、近江と京都、どちらが真の将軍か決着がつくのを待つ。一五一一年に義澄が没し、事前に高頼は義稙に接近してことなきを得た。義澄の死に際の蜂起で義稙は京都を奪われていたものの、まだ大内義興が側にいる彼は強い。船岡山合戦を経て、京都を奪還し、将軍は十代義稙で一本化した。

 この時、義稙は四十三歳。媒酌人は、それとなく、近衛家娘を勧めただろうか。

 この長きにわたる放浪生活を経た、鋭気紛れもない将軍は、うっとうしげな顔をしたかもしれない。

 「今さら新妻を娶れと言うのか? 越前の、安芸の周防の水に泥んだ身には、京の乙女はどうもしっくり来ぬわい。妾(しょう)ながら、古女房もおることでな」山名氏娘の側室がいる。それなら子供に、と、望みをつなぎたいが、義稙には子供がいない!!

 (ーーーーーーーーーーーーーー)

 暗澹としただろう。実際、義稙は、相続をどうするつもりだったのだろう?

 四大名(大内義興、細川髙国、畠山尚順、畠山義元)のパワーバランスに気を遣っていた義稙にとって、正室を選ぶのは重大な政治的判断でもある。容易に媒酌人の容喙をいれられない問題だった。しかし長引くほど、おのれの年齢を自覚し、結婚がおっくうになる。

 (まさか、白秋になって天下を手にするとはのう)

 この間、義稙が京都を出奔し、甲賀へ滞在する事件などもあり、高頼との関係は悪くなかった。

 さて、この間、江源武鑑に則り、氏綱嫡男義実に、はたして猶子の縁組みをしたのか、どうか。

 どうも、義稙の行蔵を追うと、これも、可能性が薄い。義稙は、その最期に阿波に逃れ、そこで、義澄遺児であり、阿波細川家に擁護されていた義維を養子にする。ここまで、義理の子供を作るのを遅らせているのだ。高頼が是非とたのんだところで、応じるものだろうか。

 むしろ、この点では、九条家の方が優勢だったかもしれない。九条政基の子・義堯(ギギョウ、醍醐寺三宝院門跡)が、義稙猶子になっている。ただ、これは、三宝院門跡が将軍猶子になる習わしに従っただけである。義稙という男は、刺客に襲われたり、毒を盛られている内に、近しいものを作らない習慣でも身につけていたのだろうか? どうも、義理の子供をもうけることもおっくうがっており、まして、六角家の子供に猶子縁組みをしていたとはかんがえにくい。

 残念ながら、義実の義稙猶子という続柄も、仮冒の可能性が高そうである。

 

 しかし、ここで、逆説的なかんがえは成り立つ。つまり、仮冒とはいえ、氏綱遺児を将軍家に縁づける。義澄妹の子であり、義稙猶子の義実を、系図の上でだけ成立させる。

 氏綱遺児自身はいてもおかしくはない。だが彼は家督を継がない。そのうえで、仮冒の綺羅だけまとい、系図上当主ということにして、氏社である沙沙貴神社には奉納する。

 実権からは離れた、権威だけの強力な集積装置、これを内々に成立させておくことが、そもそも高頼の狙いだったのではないか?

 蒲生対い鶴御所の、御所様。

 もともと、新約武権神授説も、旧約同様表沙汰にはできない因習だ。この氏神信仰は、遡れば渡来人に行き着くのだ。天皇家にどのくらい朝鮮由来の要素があるのか定かではないが、殊更にそれをいいたてるのはタブーだ。同じように、武家政権の出自がそもそも帰化人の氏子であるという武権神授説は、絶対のタブーだった。

 だから、日野家の息長流の出自同様、表にはできない。内に、裏に、内裏のように君臨する

 闇将軍となる。

 それが武家政権の権威装置、第二の皇祖神・八幡大菩薩の化身。

 その先祖。

 蒲生対い鶴御所、三上流の御所様だ。

 (系図だけでいい。ーーーだが、血液のみは、真実にせねばならぬ)

 日野家の神聖権威が、息長氏の血液で担保されているように。

 

 御所様は、三上流蒲生稲置氏の血を、受け継いでおらねばならない。

 江源武鑑と、ひょうすべ史観の合流点だ。

 

 六角氏綱─義実─義秀─義郷

 

 この義実流には、どこかの時点で、蒲(・)生(・)氏(・)の(・)血(・)が(・)入(・)っ(・)て(・)い(・)る(・)の(・)で(・)は(・)な(・)い(・)だ(・)ろ(・)う(・)か(・)。

 六角氏の一族にあって、三上流蒲生稲置氏の血を伝える一族。

 

 それが、義実流、蒲生対い鶴御所の御所様だったのではないか。

 


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