蒲生対い鶴御所 政略婚苦難節
果たして本当に、高頼妻が近衛政家娘だったのかどうかは分からない。だが、どうも、六角氏と近衛氏の間に、近しいものを、少なくとも当時の人々は感じ取っていたのではないか、という雰囲気がある。
十六世紀になる。近衛家はそれでも大丈夫だったが、公家の没落は紛れもない。
だから、摂家たりとも、これまで武家政権とは距離を取ってきた近衛流なりとも、近づきだした。
近衛政家は、足利義満と。六角高頼は、足利義稙、義澄と。近衛尚通は、足利義晴と北条氏綱と。近衛稙家は、足利義輝と朝倉義景と。
彼らが結託する未来が、明応九年(一五〇〇)八月十三日、決定されたのではないか? (八幡神族日野家の横暴は目に余る)
応仁の乱前後、乱の背景には、日野勝光と富子兄妹の存在感がある。義視は、富子や勝光との不和が原因で最終的には西軍に走り、将軍に担がれ、対立を長期化させた。東西両軍に大将軍が擁されなければ、応仁の乱はもっと早期に終息しただろう。日野一族がどの程度私利私欲を貪っていたかは分からないが、代々の将軍家御台所、その権益は享受していただろうし、少なくとも、近衛流からは武家政権と手を結んで朝を恣にする輩と、と、敵視されていただろう事は間違いない。
(最早朝が、武家政権を前提とせねば成り立たぬのは自明の理。それならば、われわれが、日野家に取って代わり、幕府と朝廷を主導する)
これは、権力争いの範疇であり、長きにわたる九条流との因縁から、当然の転針だった。 だが、近衛流にも不安がある。武家という連中は、やはり、公家とはどこか違う。連中が禅に凝り、真言法華に入れあげていようとも、その根っこには、根強く、古代からの氏神信仰が息づいている。ーーこの点に関しては、現代の日本も似ている。どれだけ西欧の文明文化に染まっても、古代以来のものがちゃんと根づいているし、その要素がいわゆる「クール・ジャパン」にもなる。
武家の氏神信仰。武権神授説。
秦氏の生き神である日野家に、連中は因習と化した忠誠心を抱いている!!
果たしてそれなしで、武家を従わせられるだろうか? ーー後醍醐天皇は、建武政権は失敗した。結句、等持院尊氏を旗頭に、恐るべき東夷どもは牙を剥き、建武の王朝時代を終焉に導いた。
その後持明院統を立て、北朝を設立した。朝廷を建てるという古代世界さながらの偉業を成し遂げた足利将軍家が選んだパートナーが、誰あろう「名家」日野家である!!
公家から見れば絶望的なまでに、武権神授説の紐帯は堅固だ。
だが、そこに、六角高頼から声が掛かった。彼は、鈎の陣や第二次六角氏討伐を生き延びるための装置として、新約武権神授説という氏神信仰の宗派を立ち上げた。そして、蒲生氏に偏諱を授け「高郷」とする。
「われわれが結託すれば、日野家に従属する武家体制を刷新することができます。足利将軍家を六角家が支え、近衛家が権威付けする。室町幕府を刷新することができるのです」
第二期秦氏政権・室町幕府から、第三期秦氏政権・蒲生対い鶴御所へ。
こうして、静かにハンドリングが施されたのだ。
ブログ佐々木哲学校の「近江守氏綱」の記事に、こうある。
『永正元年(一五〇四)上洛し、近衛政家から太刀を贈られた。さらに飛鳥井雅俊の仲介で近衛政家・尚通父子に対面し、太刀を進上している。このとき政家は、氏綱の成長ぶりを記しています(後法興院記)。この記事から氏綱が近衛家の縁者だったと推定できる。』
後法興院記というのは、先にも引用した、政家が記した日記だ。どうも、本当に、近衛政家娘をもらっている気配があるが、断定はできない。ただ、政家・尚通父子と、高頼・氏綱父子、親子ぐるみの付き合いを匂わせるには十分な記述だろう。
高頼が政家を招いたのが、一五〇〇年八月。
足利─近衛体制は、かなり早い時点から目指されていたことになる。
しかし、義晴と慶寿院の結婚が天文三年(一五三四)六月八日。ひっくり返るくらい後年である。
なぜそこまで時間がかかったのか? これは、それだけ日野家との結びつきが強かった、という問題ではない。
政局だ。
政略結婚媒酌人たちの苦節を語ろう。まず、一五〇〇年八月の時点で、当時の在京将軍義澄は、恐らく、既婚者である。相手は日野阿子。この時点で、媒酌人たちは首をひねらなくてはならない。
(対立候補である義稙殿は何やら周防に落ち着かれたようじゃ・・大内氏擁護にあるとはいえ、果たして、逆転の目があるかどうか)
現に在京している将軍に娘をやりたいものだが、日野家の目が光っているし、第一、日野阿子が正室、近衛家娘が側室に落ち着けば、状況が悪化しかねない。
だが天佑、一五〇五年、日野阿子が離縁されたのだ。
「今じゃあああああああーーーー!!」媒酌人たちは、定めし、勢い込んだであろう。だがなんということ、義晴は、御末(下級侍女)の阿与に首ったけである。
(だ、だが、正室の座はまさか阿与にはあたえられまい。そこに、近衛家娘を・・)
しかし、この時期、六角高頼は、大変な災難に見舞われている。伊庭氏の乱が起こったのだ。重臣の伊庭貞隆と対立し、内紛に陥った。この伊庭貞隆、一筋縄ではいかない。応仁の乱をかいくぐり、高頼とともに二度の六角氏討伐を生き抜いた古強者だ。近江守護代で、肩書き的にも、六角家のナンバーツーと言える。文亀二年(一五〇二)十月から始まった伊庭氏の乱は、静穏期を挟みつつ、細川・京極・浅井諸氏を巻き込み、高頼の残りの人生を捧げて鎮圧する騒動になった。
将軍家を支えるどころではない。
その将軍義澄も、政治を巡って細川政元と紛糾し、何度もどちらかが出奔し、もう片方が連れ戻す騒ぎになっている。
細川政元のような危なっかしい男がキーマンなのだ。このあたりで、媒酌人も気づいただろう。
(政局が安定し、勝者に嫁がせねば、敗者とともに没落していく羽目になる!!)
そして当時の幕府は、一番安定にはほとどおい。明応の政変の余熱最中である。
日野阿子と義澄離縁から二年後
永正の錯乱(一五五七)勃発。細川政元が湯殿で討ち取られ、京兆家当主を巡る、澄之(九条家出身)澄元(阿波細川家出身)髙国(細川野州家出身)の三者による泥沼の紛争が発生する。
(頼む!!澄之だけは敗亡してくれええええーーーーー!!)媒酌人は祈っただろう。そもそも、細川殿の変(政元殺害)は澄之の企図である。このあたり、阿子とは離縁しているものの、将軍家と政元との間で揺れ動く権力を一本化しようとする、九条─日野サイドの陰謀かもしれない。
幸い、澄之は、真っ先に亡んだ。三好之長と、澄元を擁立することにした髙国の共同作戦だ。
そして、その之長と澄元の阿波細川家政権も、之長の倨傲(阿波人への風当たりも手伝ったのではないか)に嫌気の差したものたちが、輿望を集めた髙国に味方し、倒される。
このあたりのいきさつを聞いていたから、ひ孫の長慶は、京都人とうまくやることに腐心しているのかもしれぬ。
髙国が立った。
すると、思わぬことに、周防の十代義稙が上洛。
在京将軍は義稙に移り変わり、義澄は近江・六角氏の元へ逃れた。
(ハア?)
媒酌人としては、呆気にとられるしかない。時、一五〇八年四月のことである。




