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いつか見た風景─近江八景─

 そもそも、義実─義秀─義郷の三代を提唱しているのは『江源武鑑』だけではない。

 まず、六角氏綱からおさらいしよう。じつは、六角定頼は、高頼嫡男ではない。嫡男は、氏綱という二十代で没した人物で、定頼は「吉侍者」という法名で出家していた。だが、一五一五年あたりから氏綱が体調を崩したのか、吉侍者が僧籍のまま陣代となり、政務を代行していた。この関係性がそのまま敷衍されて『江源武鑑』の定頼流は、氏綱─義実とつづく嫡流に対し「陣代」でしかないという主張になるのだろう。

 右の事情で、氏綱は至極影が薄いまま、永正十五年(一五一八)に没する。後を継いだのが定頼であり、高頼と名前の連続性もあり、ついつい氏綱は見落としがちになる。[しかし、定頼は一五一八年に兄を亡くし、父高頼も一五二〇年十二月に没する。その間に蒲生対い鶴御所を立ち上げ、髙国を担いで等持院の戦いへ踏み出している。苛烈としかいいようがない]

 この氏綱には、仁木義政という子供がいた。伊賀守護仁木氏(足利庶流)を継ぎ、御相伴衆に列したから、室町幕府のトップ層であり、六角家の伊賀国支配の要だ。

 通常、氏綱の子供は仁木義政しかいなかったとされるが『江源武鑑』は、義政の兄、氏綱長男「義実(よしさね)」に言及する。

 そして、この義実こそが嫡男であり、義秀、義郷と系譜をつないでいく。これに対し吉侍者こと定頼流はあくまで「陣代」から改められておらず、あくまで「陣代」「箕作」と呼ばれる身分でしかないとされているのだ。

 作者もこれまで本稿で述べていた一切が覆された気分だが、この氏綱から始まる義実流、じつは『江源武鑑』のみが主張しているものではない。

 近江沙沙貴神社(ささき神社、滋賀県近江八幡市安土町)は全国の佐々木一族の氏社で、当然佐々木源氏も、その庶流の京極氏も、嫡流六角氏も信奉していた。この沙沙貴神社の神主家に伝わる系図『佐々貴一家流々名字之分系』でも、六角高頼から下った定頼には「箕(み)作(つくり)」という併記があり、箕作城(観音寺城の支城、堅城)で箕作氏を称したとされているのだ!!

 まさに『江源武鑑』通りの記述で、少なくとも『江源武鑑』は完全な偽書ではなく、この沙沙貴神社の系図に準拠していることが分かる。

 そして、六角高頼から下り定頼の隣にある「氏綱」には代三世と冠されている。高頼は代二世(第二次六角氏討伐の際、高頼は近江守護を解かれ、新たに任じられた虎千代を代一世としているのか)

 そして、氏綱から下って

 代四世・義實(義実)へつながっている!! そこから代五世・義秀、そこから代六世・義郷、そこから代七世・氏郷へ

 六角氏嫡流は、間違いなく、氏綱流、義実流で、継続している!!

 これはどうかんがえるべきなのか。

 六角氏綱、六角義実、六角義秀、六角義郷が、沙沙貴神社系図の主張する嫡流だ。

 しかし一方で、あれほど政局に関わっていた六角氏の当主が、中央の記録にまったく残っていない、などということがあるのだろうか?

 『在野歴史研究家の佐々木哲は「鹿苑日録」の天文5年(1536年)五月十四日の条にある「江州宰相興印子来」、天文8年(1539年)五月十九日の条に「宰相上洛」と記されているのは参議(参議の唐名は宰相、相公)義実とのことだとしている。』

 この六角家当主義実、沙沙貴神社系図や『江源武鑑』の記載によれば

 母は十一代将軍義澄妹

 官位は従三位参議、大膳大夫、権中納言

 十代義稙猶子、というじつにあでやかな肩書きが列記されている!!

 

 困ったことに、可能性がなくはないのだ。六角氏は、京都を追われた将軍をよくかくまっているし、ことに十一代義澄は、義稙入京とともに近江へ逐電し、近江御所を建てた。永正五年(一五〇八)四月から永正八年(一五一一)八月に没するまで、六角高頼の世話になりつづけ、彼を味方につけるために妹を当主氏綱にやることくらいありそうな話だ。ただ一般的には、氏綱妻は「不詳」である。[義稙猶子についても、高頼は義澄存命中から義稙へ接近し、没後も関係は良好だった。四大名並立制を維持しつつ味方のほしい義稙なら、義実を猶子にすることで六角氏を味方につけられる、悪い話ではない。かてて加えてそれだけの背景があれば、義稙が、いわば京都を奪われた澄元・三好之長軍の侵入に、定頼が周辺大名を誘って馳走する動機になる]

 

 しかし、本稿としては、一笑に付しにくい。これまで、定頼の、一介の従四位下弾正少弼にしては八面六臂の活躍を見てきたではないか。六角氏というのは概して人気の無い大名で、さほど研究が進んでいなかった。だが、むしろ、畿内の有力者の行蔵を追う中で、高頼定頼親子の名前が散見され、その輪郭が明瞭になるとともに大きくなっていった経緯がある。

 それは、将軍家の子供になった義実が背後にいれば、定頼も本願寺と晴元の和睦だろうと、細川氏と三好氏の和睦だろうと、義晴と晴元の和睦だろうと、十分な貫目で調停できる。

 むしろ、そちらの方が腑に落ちる。

 

 

 さて、脱線は本稿の常だが、そもそもは、髙国が足利─近衛体制を築いたのは、定頼が、蒲生対い鶴御所に、九条家に対抗できる摂家を引き入れる政略ではなかったのか、という話だった。

 右『在野歴史研究家の佐々木哲』氏が紹介されている。佐々木哲(とおる)氏は、著書『佐々木六角氏の系譜―系譜学の試み―』『系譜伝承論―佐々木六角氏系図の研究―』『東大入試で遊ぶ教養 日本史編』など。

 江源武鑑に真実性を見いだす研究者の一人だ。

 この佐々木哲氏のブログ『佐々木哲学校』近江守氏綱の項に、次の一文がある。

 「六角氏綱(一四九二─一五一八)高頼の長男。母足利成氏娘(実は近衛政家娘か)。」

 つまり、六角高頼は、近衛政家娘、近衛家の女性を娶っていたのではないか、そう言われているのだ!!

 これは、たしかに腑に落ちるところもあるのである。先の沙沙貴神社の系図、じつは高頼の横に、こう記載されている。「近衛政家 公詠 近江八景の和歌八首 明応九年(一五〇〇年)八月十三日 招待」

 近江八景とは、次の事跡が元になっている。

 明応九年(一五〇〇)八月十三日、近江の六角高頼が近衛政家(従一位関白太政大臣)と近衛尚通父子を招待する。近衛政家は近江での滞在中、近江の景勝から特に八つを選び、これを詠った。

 高頼と近衛父子の関係の近さを感じさせる。娘をやるほどの距離感かどうかはさて置くとして、少なくとも、この由来が広まるほど、両家の関係は近しかったということだろう。[近江八景は現在では別の由来が有力になっている。ただし、その説も決定打に欠けるもので、本稿としては、従来のこの説を推したい]

 近衛政家は、八代義政に接近し、その権力を背景に京都に君臨した。尚通も、慶寿院を義晴に嫁がせ、さらに北条氏綱へ娘をやっている。

 武家政権への接近、つまり、九条家─日野家と対立する道へ、舵を切り始めていたのだ。

 だとするのなら、近江の実力者である高頼と接近するのは近衛家の方針に合致する。まだ、娘をやるほどには接近していない。

 だが、この時に、十分な距離に近づいた高頼と、政家・尚通らは

 蒲生対い鶴御所の設立と、近衛家の参加について、協議したのではないだろうか?

 六角高頼が、和歌や文雅の道に通じていた、などという話は伝わっていない。近江八景などを選出する風雅な席を高頼が催したとはかんがえがたく

 政談と密談のために、彼は、近衛家父子を招待したのではないだろうか?

 [ちなみに、政家自身が記した『後法興院日記』では、八月十三日前後は在京しており、しかも家に引きこもっていたという。この記述をどうかんがえるか・・これだから陰謀論者とは話が通じないと言われてしまいそうだが]

 そして、その密議の掉尾であり、妥結として、政家は八つの歌を詠んだ。

 政家の詠んだ歌自体は伝わっていないが、まあ、じつに、これが。

 どういうわけだか、これまで、本稿がたどっていた、なんなら、これからたどろうとしている「渡来人に縁のある場所」「秦氏に縁のある場所」に、ほとんど該当するのだ。

 ・石山秋月(石山の秋月、石山寺)大津市石山寺、壬申の乱で敗れた大友皇子が手厚く葬られたという。

 『壬申の乱で敗れた大友皇子の子、与多王が、父の菩提寺として三井寺を建てた。大友氏は、当時近江国滋賀郡大友郷で強大な力をもっていた渡来人氏族だったという。この氏族に養育されたため、大友皇子という名前になったというが、なにやら、在地渡来人との強力な結びつき・・きな臭いハナシである。ーー当時、天智天皇は、飛鳥から近江大津宮に突如遷都し、その目的は分かっていない。』

 ・瀬田の夕照(瀬田の大橋)

 『有名な伝説なので、聞き覚えのある方もおられよう。御上神社の伝説として伝わっているし、日光の戦場ヶ原にも、似たような伝説がある。秀郷の前に現れた小男は、大蛇の化身であり、おのれを踏みつけにした秀郷の剛をたたえた上で「自分には長年土地争いをする仇がいる。このものに悩まされているので、どうか、御身がこれを討ってはもらえないだろうか」そう頼み込む。

 御上神社の伝説では、瀬田の唐橋で大蛇を踏むところまでは同じだが、大蛇の化身として現れるのは、美しい女性だ。ーー龍女。』

 ・粟津晴嵐(あわづのセイラン、粟津原)

 これは新出になる。粟津原で源平時代、頼朝軍諸将と木曽義仲との合戦が起こった。この戦いで、義仲は討ち取られる。つまり、為義流八幡神族同士の決戦である。

 ・矢橋帰帆(矢橋のキハン、草津市矢橋)

 これは正直分からない。琵琶湖岸の港町だ。

 ・三井晩鐘(三井寺)

 『さて、三井寺が視界に入ってきた。

 ミツイ寺、ではないミイ寺、と読む。ーー近江国大津にある寺で、かつては、ただ「山」といえば比叡座延暦寺であり「寺」といえば三井寺をあらわす、というほど有名だった。

 ーーじつに、ひょうすべ史観において、無視できない存在感をはなっている寺だ。』

 最澄直弟子が延暦寺から離れた分派の寺。最澄や直弟子たちの近辺には渡来人の影が濃く、また三井寺は新羅明神、秦氏の神を祀っている。

 ・唐崎夜雨(唐崎神社)

 唐崎神社は大津市北部にあるが、この地域は大友皇子を養育した大友村主を始め、穴太村主、錦部村主、三津首といった渡来人が多く住んでいた。

 ・比良暮雪(比良山系)

 『まあ、この比良山地も、いろいろある。ーー作者は、日本神話でいう「黄泉国」とは、具体的には、この比良山地のことだとかんがえている。

 

 ひょうすべたちに先立つ、日本の淵源が、近江にはある。』

 

 さて、ここからは、この先、具体的には【古代編】で取り上げようとかんがえている名所だ。

 ・堅田落雁(かただのラクガン、滋賀県大津市本堅田・満月寺浮御堂)

 右に、比良山地こそ、日本神話で言う黄泉国だとしている。その上で、堅田はその比良山地の麓に位置する湖岸の町だ。黄泉国は別名根の国だが、さらに「根の国堅州」と、定型句として扱われる。この堅州こそ、「黄泉国」比良山地に隣接する堅田のことだとかんがえている。堅州も堅田も地名の由来は「固い地面」である。

 

 ーー不思議なことに、近江八景は、後戸の客にとって、何かしらの意味のある名所である(矢橋は何かしら見落としているのだろうか)黄泉国云々は【古代編】で取り扱うが、要は、神功皇后に関係がある。

 近江には、他に、琵琶湖八景というものもあるのだが、こちらは、近江八景ほど渡来人にはつながらない。

 

 自分たちの政談が、秦氏の、武家の、スクロールアウト同盟の根幹構造を変えてしまうということを自覚していたから、政家は、渡来人に縁のある地所を八選したのではないか?

 

 


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